今日、区役所に用事があったので行ってみたのだが、役所内に5分と居られず出てきた。
もちろん用事は済んでいない。
とうとうここまで来たか・・・・
と思う。
電車に乗るのさえ苦痛になっていた今日この頃であるが、ついにこんなことすらダメになったかと思う。
その理由が全くわからなかったのだが、今日の帰りの道すがら昔のことを思い出してようやく納得した。
私が行っていた幼稚園は「聖母女学院」という「聖母マリア」をいただくカトリックの学校の付属の幼稚園である。
先生は「シスター」と呼ばれ、皆黒い修道服に身を包んでいた。
そんな幼稚園に初めて行った日・・・
案内された教室の扉を開けると、他の園児たちが席について皆前にいる先生の方を向いて着席していた。
その光景を見た私は反射的に教室に入るのを『拒絶』した。
言葉には出来ない(園児だから仕方ないが)異様さや違和感を感じて、母や先生方が教室に入るのを勧めるが、『嫌だ』の一点張りで拒絶した。
『恐くないから大丈夫ですよ』
と先生は勧めるが、そういう問題ではない。
「そこに行って同じようにするのが嫌」なのである。
そこから幼稚園に通えるようになるまで時間がかかったが、それでも少しづつ慣らされて、なんとか通えるようになった。
しかし、途中で何度も幼稚園を抜け出して一人で帰宅することもしばしば続いた。
そして、卒園するときには「園児代表」で訓示のようなものを皆の前で読んでいたらしい。
記憶にはないが・・・・・
幼稚園最後の日の記憶は無いが、最初の日の記憶は未だ鮮明にある。
そう
あの時の『違和感』そのままなのである。
何が?
『社会』そのものが・・・である。
園児だから何も言えずにただただ拒絶していただけだが、今なら言葉に出来る。
あの『強制収容』のような雰囲気・・・
それが社会にあふれ出しているのである。
そしておそらくは多くの『家庭内』にも【侵食】しているだろう。
右を見ても左を見ても『マスク』で顔を覆っている。
それは、あの教室で園児たちがおとなしく着席して同じ方向を見つめていたあの『異様さ』と同質のものである。
だから今の私を見れば多くの人は『病院に行け』と言うだろう。
しかし、園児だったあの頃の私を見て『病院に行け』とは言わない。
つまりは『病気ではない』ということだ。
『マスクは奴隷の象徴』と言われる。
自分に『マスクを付けられた奴隷』だった過去があるかはわからないが、健康なのに『マスクをつける』異様さに誰も気付かないのだろうか?
そして、マスクを外して役所内で用事を済ませるために待っていたら、通り過ぎる人がいちいちこちらを見る。
そして重たい【念】が飛んでくる。
それも気持ち悪く、用事も済んでいないのに帰ってきた。
コロナで【何】が蔓延しているのか?
コロナで【何】に【侵食】されているのか?
多くの人は気付いていないだろう。
そして、これからも様々な【侵食】を受け入れて行くのだろうと思う。
それが【枷】であることも知らずに。
今、社会では『マスク』は確かに【枷】である。
そして、社会はあの日見た「教室の光景」そのものである。