彦根・井伊の赤備
今現在、彦根の赤備の英霊たちは、神界の『真田丸(龍宮)』での戦を終えて『最後の一矢』を報いんと【本陣】を狙う機をうかがっているようである。
真田幸村が徳川家康の本陣目掛けて進撃していったのは、大阪城の落城が『必至』となったからである。
おそらくかの英霊たちはそんな心で佇んでいるのだろう。
厭離穢土 欣求浄土
徳川家康の旗印『厭離穢土欣求浄土』は、戦乱に明け暮れる『穢土を厭離』し、戦争のない『浄土を欣求』するというものである。
だがそれは大阪方からすれば『悪』ではあるが、歴史から見れば『戦乱の時代が終結した』ことを鑑みれば、それはけっして『悪』ではない。
そもそも『命がけ』で出来る稚拙な『悪』などない。
そこにはその者なりの『大義』がある。
そして『大義』があるから『命』を賭してゆけるのである。
そんな『悪』と言われる側に立って『大義』なるものを探してみれば、そこには確かに『大義』がある。
『悪』と言われる『大義』を持つに至るには、それなりの『経緯』というものがある。
全く違った人生を送ってきた者が、それでも同じ『大義』を持つことは難しい。
『悪』と見られようとも成し遂げたい『大義』がある。
それはやはり『厭離穢土欣求浄土』なのかもしれない。
そして、それを為すには相当な『覚悟』と『想い』が詰まったものなのである。
だが、それが自分の『大義』と異なる場合、ぶつかることになる。
そして、こちらの『大義』は相手にとっては『悪』と見ゆるのである。
こちらが『悪』と見るように、向こうも『悪』と見るだけである。
まるで鏡のように・・・
けっして自分だけが『善』でも『正義』でもなく、相手だけが『悪』でも『不義』なわけではない。
では何が『善』で何が『悪』なのか?
結局のところ、それを『人』が決めている限り、『善』と『悪』は対立し続ける。
判断基準が『人の想い』である限り、対立し続けるのである。
だから『想いの同じものだけで集まる』という現象が起こるのだが、それは結局のところ『違う想いのものを排除する』ことになる。
そこには『悪』が潜む『蔭』が生じることになる。
排除されたものからしてみれば、それは他ならぬ『悪』なのであるから。
神と人の対立
その大元をたどる時、行きつくのは『神と人の対立』である。
神が弥栄のためにしたことを、神々が、そして人が『悪』と見なしたからである。
それは神々の世界でも同様であり、そのため『国常立命』が退場し、『天照皇大神』が岩戸隠れし、『素戔嗚命』が地を追われ黄泉の世界へ降ったのである。
だから、今現在起こっている事象達も、単なる『悪』ではない。
『悪』と見ゆる者たちには『命がけの大義』があり、そうして起きている事象なのである。
しかし、だからといって『何もしない』というのは、それこそ本物の『悪』であろう。
『厭離穢土欣求浄土』の旗印のもと、『悪』なる『渦』に巻かれて行っても『致し方なし』となるであろう。
悪を抱き参らせる
『悪』に見えるといえども『厭離穢土欣求浄土』の名のもとに行動しているならば、そこには『理』がある。
そしてそれは『神の意が体現されている』ということでもある。
そこに『神の意』があるのであれば、それはけっして『排除』することは出来ない。
ではどうするか?
日月神示には『悪を抱き参らせよ』と何度も出てくる。
そして導きは追い打ちをかけるように『同じ過ちは出来ぬのであるぞ』と伝える。
『同じ過ち・・・』とは、かつて大元の神と八百万の神々が対立したように、そして神と人が対立したように『同じ過ち』を犯してはならないということである。
その手立てが『悪を抱き参らせる』ということである。
『悪を抱き参らせる』
それは、『神心』となることである。
『悪』に見ゆるものの奥にある『神心』を掴むということ。
そして『悪』となるものの『本質』を掴む 神々の社会にも人の社会にも『蔭』がある。
この『蔭』が映って『悪』と化すのである。
そんな『蔭』を作っているのは誰であるか?
それは、誰一人として『自分ではない』などとは逃れられないものである。
だから『改心』せよと言う。
だから『誠』で生きよと言う。
だから『身・口・意』の三蜜揃えて生きよと言う。
なぜなら、
すべての『蔭』はここから生まれるからである。
赤備の武者たちは、けっして敵を『悪』とは見ない。
大義と大義のぶつかり合いであると・・・
爽やかに死んでいったのである。
瑞産み(みずうみ)の龍王