曲がらぬ『誠』 | 神人一致の癒奏術・響庵

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いくつかの護符の『型』が出てきましたので載せておきます。

まだ『型』の段階ですので、のちにこれを清書して鎮魂した後出来上がりとなります。


【陰陽五寶神符】という名が降りて来た時に、すでに『龍神符』と決まっていたのでしょう。


一二三四五六七八九十(ひふみよいむなやこと)の十種の御寶をおのが姿と変じたまい・・・・

という【龍神祝詞】の如く、陰陽五寶で『十種の御寶』となるわけですから。




元々は護符を書くつもりも予定も無かったはずで・・・

何故なら、「護符を書くはずの人が居たから」です。


しかし、『小我』に囚われたがゆえに魔我理(まがり)て禍理(まがり)て曲がってしまったわけです。

過信して自惚れて・・・

恐れに呑まれて道を外れてしまう。

いくら運命の出会いがあろうとも、いくら『お役』の機会が来ようとも、曲がってしまえば終わってしまう。


あれから3年弱が経ち

結局、自身で『護符』を書くこととなったわけです。



小我につまずき足元をすくわれ曲がってしまわないように、『曲がらない』という強い意志が大切です。

何度も自分に対して

「曲がっていないか?真っすぐか?」

と問い続けて審神者(さにわ)する。

慾に流されていないか?

恐れ逃げて弱さに目をつぶっていないか?

情けで動いていないか?

そもそも導きは正しいのか?



どんなに悟りを得ようとも、この身ある限り人は『曲がる』可能性を秘めている。

たとえ仏陀でもキリストでもそれは同じである。



身体は水であるから情けに傾くのはやむを得ない。

しかしそれを『魂の火』で昇華する強さが必要である。


身体の情けに流されれば、身体と霊は乖離し、魂は離れて行く。

そして導きは途絶え、曲がった心には禍霊(まがひ)の言葉が囁く。

その禍霊を『神』としてしまえば、もはや簡単には戻れない。



せっかく

この時この場所に生まれながら『魂』の思いを遂げられず、身の『情け』に流されてしまえば

『後悔』の海を【航海】することになるのである。

本当に残念である。




魂の思い、魂の火は『成すこと』である。

されど多くの人は『得ること』に走る。

また『成すことを得る』ことに腐心する。

そこに『魔我理』が潜み、『大義を成したい』と欲して曲がってしまう。


だから私は常々言うことは『出来ることをせよ』である。

『出来ないこと』は出来ないのである。

だから『出来ることをせよ』なのである。


出来ないことばかり追いかけていると、いずれ曲がる。

だから自分の背丈に合ったこと、自分の器にかなったことをするだけである。

ただ、それを無心に夢中で続けていれば、いずれ背丈は伸び器は広がる。

しかし人はそれを待てぬ。

だから気持ちだけが先走り、実となる身が付いていかないまま、背伸びし風呂敷を広げてしまう。

そして曲がるのである。


「過ぎたるは及ばざるがごとし」なのである。




水晶やアメジスト、ヒスイに黒曜石...etc

金、銀、銅、鉄、鉛...etc

金剛たる石や金属には様々な個性があり、様々な美しさや輝きがある。

だが水晶はダイヤモンドにはならず、鉛は金にはならない。

「がんばれば何にでもなれる」わけではない。


鉛がメッキして金を装い、水晶がブリリアンカットをしてダイヤを装い・・・

しかしそれは鉛が金になったわけでも、水晶がダイヤになったわけでもない。


それを『良し』とした時代はもう終わり、純粋な個性のまま生きる時代に変っている。

それを後押ししているのが、牡牛座に滞在する天王星である。

天王星は牡牛座の支配性である金星を機織り、あるがまま生きることへの変化を催している。

金星のヴィーナスは「着飾らない美しさ」

ありのままを磨き上げ個性を輝かせる美しさである。



あるがままのものに本来『優劣』などない。

『優劣』があるのは、ただただ『人の心』だけである。

人の心の中に在る小さき我の『慾』だけである。




磨けば光る様々な原石を、横一列にセメントで固める時代は終わり

自分を着飾らずに輝かせられるのである。

なのになぜまだ自分を曲げるのか?

せっかく『楽』に生きれるのに、なぜ自分を曲げて自分を苦しめるのか?



ただただ真っすぐ生きて出来ることをせよ


それが『誠』である