姿勢と態度
姿勢と態度の根本的な違い・・・
それは「本能」と「思考」の違いでもあります。
どんなに素晴らしい態度を装っても、姿勢と態度が食い違っていれば、いとも簡単に伝わってきます。
姿勢は態度に現れます。
それは、姿かたちの「見た目」ではなく、「熱量」として伝わってくるものです。
肉食動物が獲物を捕獲する時の姿勢・・・
それは「獲物を捕獲する」という一点集中の「情熱の姿勢」でもあります。
そこには「態度を装う」ことなど微塵もありません。
捕食される側も同じ。
そこには「態度を取り繕う」ことなど微塵もなく、ただただ「逃げ切る」ことに情熱を注ぎ込みます。
学びと習得
どこから間違ったのか?
「学ぶ」ということと「得る」はずのものがズレていると感じます。
「学ぶ」とは食事をして身体の血肉に変えるように、知識を自分の血肉に変えるということ。
それがいつしか「学びの過程」が「装い」となるような学びの在り方が増えてしまっていると思います。
というよりも、「過程を終えた」ことと「習得」したことを混同してしまっているのかもしれません。
「癒奏術」のセラピーの技を教えてほしいと言い、その「カタチ」だけを真似しようとしたところで、それは「技術」とはなりません。
しかし、「過程」と「カタチ」を覚えて「装う」ことを目指している人は多い。
でもそれは「習得」ではありません。
習得しない人に教えても意味はなく、また、教えを受けたとして「名乗り」を与えるわけにもいきません。
大切なのは「技のカタチ」ではなく、その奥にある「心」です。
もし、その心があるなら、技の伝授はいとも簡単なものとなります。
そして、その心があるなら、自分の技を生み出すことも出来ます。
「習得」しようとする人はすぐにわかります。
そこには明らかに「熱量」の違いがあります。
そして「姿勢」が違います。
だから自ずから「態度」ににじみ出てきます。
言葉は悪いですが「貪欲さ」があります。
そして、獲物を逃がさないための「姿勢」があります。
それは、とても美しい「情熱」の姿です。
そんな「熱量」に呼応するように、情熱ををもって伝えたくなるものです。
情熱が「共鳴」するからこそ、そこに「調和」が生まれ、生命が継承されていきます。
夢への情熱
夢を現実に変えるための「情熱」をどれだけ持っているのか?
その「熱量」こそが夢を具現するエネルギーとなるのでしょう。
『夢中になる』
見た目や装いではない「夢中」になっている「姿勢」
そんな姿がやはり美しいと思います。
・・・・・
私にも夢があります。
『こんな世界で生きたい』という夢
その美しい世界を垣間見るため・・・
そこに住み生きるため・・・
その世界への扉を開くため・・・
そんな世界の『創造』を目指して・・・
三度目の挑戦が始まります。