終戦の2日前の今日、8月13日は、1945年(昭和20年)に長野市が米軍機の空襲を受けた日です。
GoogleやYahooで「長野空襲」を検索しても、たったの百数十件しか引っかからないので、書いておこうと思います。
・・・といっても、全然「長野空襲」のことは知らないので、引用させていただきます。
四方赤良の余談集
『其之 33』H15.8.23~H15.9.6
終戦2日前の昭和45年(1945)8月13日午前4時15分茨城県鹿島沖に着いたアメリカ空母「ハンコック」から艦載機12機が飛び立ち、午前6時30分から長野飛行場を攻撃しました。途中で空母「ベニントン」からの艦載機も加えて攻撃を強め、9時10分から10機、12時から11機、13時30分から4機、13時45分から11機、14時15分から4機、15時22分から10機の合計62機の艦載機で断続的に攻撃を加えました。この空襲では、長野飛行場の他に、傷痍軍人長野療養所、上田飛行場、長野機関区が攻撃を受け、現在死者47人と言われています。
http://www1.ocn.ne.jp/~oomi/yomono.html
犠牲者は多くはなかったとはいえ、長野なんていう田舎も空襲を受けていたことが驚きです。
長野では「松代大本営」というものも作られていました。
松代大本営とは
松代大本営とは、アジア・太平洋戦争末期、現・長野市松代町の三つの山(象山・舞鶴山・皆神山)を中心に、善光寺平一帯に分散して作られた地下壕などの地下軍事施設群のことである。敗色濃厚だった当時、軍部は本土決戦を行うことにより連合国側に「最後の打撃」を与え、「国体護持(天皇を頂点とする国家体制の維持)」などのよりよい和平条件を得ようと考えていた。この決戦の指揮中枢を守るためのシェルターとして松代大本営の地下壕が計画された。
松代大本営の地下壕には、宮城(皇居)、政府の諸官庁の主要部、日本放送協会海外局(ラジオ)など、天皇制国家を支える中枢機関がまとめて移転する計画だった。
この工事には、多くの朝鮮人労働者が動員され、過酷な労働を強いられた。しかし、その犠牲者などについてはほとんど明らかにされていない。
http://www.matsushiro.org/daihonei/index.htm
このサイトによると、「慰安所」なんてものもあったようですね。
これは知りませんでした。