第1章から国衆の城 長野氏
はじめて箕輪城主として確認できる長野方業
彼は実に名将とされる長野業政と同一人物だった。
これは本当なのか。根拠が示される。
改めて考えると
長野氏きっての有名人業政、物語で語られる
名将ぶりに反して、実際の事績は謎だらけ。
明確な発給文書は1通もない。それどころか
受給文書すらない。
この謎は方業とすることで解消できる。
初登場した方業は、いきなり厩橋賢忠とともに
総社長尾氏の居城蒼海城(中世総社城)攻めを行っている。
落城寸前という緊迫した場面である。
更には同族白井長尾氏の拠点白井ではお家騒動が勃発。
若き城主景誠が謀殺される。
この悲劇を収拾し、総社長尾氏から継嗣を入れたのが
業政で、これも方業と読み替える。
してみると名将と言われ、人格者ともみられる
業政は随分と謀略家ということになる。
しかし生き生きとした人物として浮かび上がってくるではないか。
話は変わり、領国内の城館分布にテーマは変わる。
随分と小さな城館が点在している。
およそ家臣団を組織的に配置したとは言い難い。
しかしこれこそが国衆箕輪城の姿だろう。
構成員の多くは地元に根ざした地侍の集合体
戦国を向かえた国衆たちは概ねこんな状態だった。
もちろん大戦となれば、こんなちっぽけな城では
太刀打ちできない。
地元を離れ、箕輪城や他の大きな城へ籠もったのだろう。
しかし重要なのは
武田氏に攻略された箕輪領は、また同じ体制に
復したことだろう。
箕輪城には武田氏の有力武将が城代として派遣され、
西上州支配の中心に置かれた。
一方で、城下に地元勢力を集住させるなど
拠点整備などを行った形跡はなく、
地元民は動員兵力として把握されただけで、
従来どおり地域の小領主として暮らしていた。
その姿が復元されるのである。
