戸次川の戦いに学ぶ―逸って決断してはいけない | 歴史愛~歴史を学び、実生活を豊かにする~

歴史愛~歴史を学び、実生活を豊かにする~

「温故知新」とは言いますが、世の中を見渡すと表面的な教訓ばかりでイマイチ実生活に活かすことのできない解説ばかりです。歴史的な出来事を、具体的な行動に置き換えて実生活をより豊かにし、願望を実現する手助けになるように翻訳していきます。


Alek AuddyによるPixabayからの画像
※こちらの記事は、令和3年3月8日に書かれたものです。

皆さんこんばんは。
今回は「ビジネスに活かす戦国合戦術」第40弾として、「戸次川(へつぎがわ)の戦い」について、ビジネス的視点で学んでいこうと思います。

【ビジネスに活かす戦国合戦術シリーズの過去記事(抜粋)】
第1回 今山の合戦第5回 長良川の合戦
第6回 桶狭間の合戦第8回 金ヶ崎城の合戦
第10回 二俣城の合戦第11回 一言坂の合戦
第12回 三方ヶ原の合戦第13回 野田城の合戦
第14回 叡山焼き討ち第18回 長篠の合戦
第22回 江古田原沼袋の戦い第24回 権現山の戦い
第26回 石山合戦第29回 第一次国府台の戦い
第30回 上月城の戦い第31回 河越城の戦い
第32回 三木合戦 第34回 備中高松城の戦い
第35回 本能寺の変第37回 賤ケ岳の戦い


※『歴史と旅』増刊「日本合戦総覧(昭和63年1/10臨時増刊、秋田書店)」の今野信雄氏の記事をベースに他ブログさんの記事などを参考にさせていただいております(下記)。


時間に迫られている時ってありますよね。

締切間近等で急いでいる時は自分ひとりの問題だったりするのでまだましですが、お客さんに急かされている時は焦りますよね。

「今すぐ結論を出してもらわないと困る」

「明日になっても意味がない。今日結論をくれ」


等と言われている状況です。

こういった時、どうしますか?

また、営業手法のひとつとして「急かす」という技があります。

「このキャンペーン、今日までなんですよ」

「他にもこの物件を見学に来られた方がいて、明日にでも申し込みが入りそうです」

「残り3つしかないんで、買うなら今日ですよ」


等々。

今回は、こういった「気が逸る」状態で決断をミスした武将・仙石越前守秀久のお話です。




戸次川の戦いまでの流れ


天正(てんしょう)13年(1585年)の九州(きゅうしゅう)は、薩摩(さつま)島津(しまづ)が龍造寺(りゅうぞうじ)家を降し筑後に進出したことによってほぼ独り勝ちの様相を呈しており、大友(おおとも)家は存亡の危機に立たされていました。

島津家が龍造寺家を破った戦いについて知りたい方は、下記リンクをタップしてください:
沖田畷の合戦―「確実な勝利」を疑うべし

これに危機感を感じた大友宗麟は関白内大臣〔以降「内府」〕羽柴秀吉に援軍を依頼したのです。


大友家の祖について触れている記事:
『麒麟がくる』第28回―摂津晴門とは何者?

大友家関連の戦い:
耳川の合戦ー諍臣を愛せ

同上:
今山の合戦―意識を向ければ情報が入る


一宮(いちのみや)城の戦いにより長宗我部宮内少輔元親〔以下「宮内」〕を降した羽柴内府は、これを受けて大友・島津の両家に停戦命令を出しましたが、島津家はこれを聞き入れず、北九州侵攻を続行しました。

関連記事:
一宮城の戦いに学ぶ―キレた勢いで行動してはいけない

天正14年(1586年)7月、島津家がついに筑前(ちくぜん)に進出したため内府は九州平定を決定し、黒田官兵衛孝高と毛利(もうり)勢・四国(しこく)勢に九州への渡海を命じました。




戸次川の戦い


四国攻めの功を賞された羽柴家臣・仙石越前守秀久は、讃岐国(さぬきのくに)十河(そごう)城を領した十河孫六郎存保〔三好義堅〕の領地を除いた讃岐一国を与えられました。

九州平定戦では十河家、長宗我部(ちょうそかべ)家等四国勢を率いて軍監(ぐんかん)として豊後(ぶんご)に上陸しました。

天正14年(1586年)12月、島津家は豊後にも侵入しており、大友家領・鶴ヶ(つるが)城〔鶴賀城〕を攻めていました。

鶴ヶ城は今にも落城しそうな状況であり、救援がなければ落城するのは時間の問題でした。

しかし仙石越前は、主君である羽柴内府から本隊の到着まで戦端を開かないよう厳命を受けていました。

越前は、このまま鶴ヶ城が落ちるのを見殺しにするか、命令違反をして鶴ヶ城を救うかの二択を迫られます。

仙石越前、十河孫六らは出陣を主張し、長宗我部宮内は援軍が到着するのを待ってから打って出るべしと主張しましたが、結局羽柴家臣である仙石越前の意見が通り、諸将は戸次川に陣を布くこととなりました。

戸次川の渡河作戦を開始した四国連合軍の攻勢に島津勢はたまらず後退します。

しかし、島津軍を追撃していた仙石越前は異変に気付きます。

後退していた島津軍が突如後退を止めたため、いぶかしんでふと周りを見ると島津家の大軍に囲まれていたのです。
島津家お得意の「釣り野伏(つりのぶせ)の戦法に見事にはまったのでした。

関連記事:
耳川の合戦ー諍臣を愛せ

仙石越前隊は不意を衝かれた拍子に一気に崩れ敗走。
十河孫六は討ち死にし、長宗我部宮内の嫡子(ちゃくし)弥三郎信親は父・宮内を退却させるために奮戦しますが、こちらも敵わず討死しました。

長宗我部宮内は伊予・日振島(いよ・ひぶりじま)に逃げるも、嫡子・弥三郎が戻ってこないことに落胆し、以後、意欲を失い凋落(ちょうらく)していきます。

仙石越前は命令違反をしたこと、四国勢を差し置いて真っ先に逃走したこと、九州で踏ん張らず、すぐに讃岐に退却してしまったことを咎められ改易(かいえき)されます。




逸って決断してはいけない


今回は仙石越前の敗因を教訓にしたいと思いますが、その敗因はやはり「決断ミス」ですね。

長宗我部宮内の「援軍を待ってから打って出るべし」という慎重論を容れていれば、小勢で島津軍に向かうことはなく、「釣り野伏」に引っかかる可能性も低かったと思われます。

では、なぜ仙石は決断ミスをしたのか?

様々な要因が考えられますし本当の理由は本人しかわからない、いや、本人にもわからないかもしれませんが、当時の状況を想像して仙石の心境を洞察してみましょう。

当時の仙石は四国攻めで大成功して、讃岐一国を手に入れて、歴戦の長宗我部軍等を率いての九州出陣ということで、イケイケ状態な訳です。
(もちろんプレッシャーもあったと思いますが)

「軍監」、つまり軍目付(いくさめつけ)の役割ではありますが、部隊中で唯一の羽柴家直臣なのですから、実質的に仙石が大将となる訳です。

ここでもし援軍として黒田官兵衛や羽柴中納言秀長、羽柴内府の本隊等が来てしまったら、自分は大将ではなくなる訳です。
手柄も目減りするかもしれません。

だったら、たとえ命令違反だったとしても援軍が来る前に島津家をやっつけちゃった方が得策じゃないか?
こういった、功名心からくる焦りもあったと思います。

また、当時鶴ヶ城からは守将(しゅしょう)の利光宗魚から援軍依頼の手紙が続々と届いていたようです。

上にも書きましたが、鶴ヶ城は今にも落城しそうな状況です。

当時、羽柴内府は大坂(おおさか)を出てすらいなかったので、内府の到着を待っていれば確実に鶴ヶ城は落城します。

そんな状況下だったので、「なんとかしなきゃやばい!」という焦りの気持ちもあったのかもしれません。

安土桃山(あづち・ももやま)時代の合戦と考えると想像しにくいかもしれませんが、自分の身近なシチュエーションに置き換えて想像してみるとわかりやすいと思います。

上司の出張中、お客さんに決断を迫られている状況を想像してみましょう。

一応自分に決裁権はありますが、一言上司に相談する必要があるレベルの決断です。

上司は移動中なのか、連絡が取れません。

お客さんは、「今すぐ決断してくれなきゃ困る。今回の話はなかったことにさせてもらう」と息巻いています。

そんな中、正常な決断ができるでしょうか?

おそらく、ほとんどの人は気が逸ってしまって正常な決断ができないのではないでしょうか?

もし、ここでそのお客さんを蹴って上司の結論を待っていたらそのお客さんは離れてしまい、そのことで叱責を食う可能性もある訳です。

こういった場合、どの決断が最適かは状況によるので一概に言えないのですが、ある程度こういった事態が起こることを想定しておく必要があります。

行動指針を決めておくんです。

「上司不在であっても、上司の承諾がなければ決断しない」

等の指針を決めておいて、あらかじめ上司にそれを話しておきます。

そうすれば、たとえその場の判断を間違ったとしても、上司はそんなに怒らないはずです。
自分はあらかじめ相談を受けており、その方針に同意しているのですから。

気が逸った状態で、焦って下す決断は大抵間違っています。
焦ってから決断を下すのではなく、冷静な時に判断基準を作っておくことが肝要です。

関連記事:
天目山の戦いから学ぶ―撤退のベスト・タイミングとは

関連記事:
『麒麟がくる』第31回―浅井家の来歴

関連記事:
金ヶ崎城の合戦―過去の実績にこだわらない

関連記事:
三増峠の合戦―撤退は計画的に

関連記事:
合戦における戦術について⑥川中島の合戦

関連記事:
長森原の合戦―負け上手は合戦上手


ということで、今回は「逸って決断してはいけない」ということについて説明させていただきました。

まだまだ説明したいことはたくさんありますが、今回は以上です!
最後まで読んでいただきありがとうございました!

以下もご覧ください!

○今回登場した人物のフルネーム(参考:「武家や公家の名前について」)
・仙石〔千石〕 越前守〔通称は権兵衛〕 源〔藤原〕 朝臣 秀久
せんごく〔せんごく〕 えちぜんのかみ〔通称はごんべえ〕 みなもと〔ふじわら〕 の あそん ひでひさ
・大友 左衛門督〔通称は新太郎〕 藤原〔源〕 朝臣 義鎮〔宗麟〕
おおとも さえもんのかみ〔通称はしんたろう〕 ふじわら〔みなもと〕 の あそん よししげ〔そうりん〕
・関白 羽柴〔木下〕 内大臣〔通称は藤吉郎〕 豊臣〔平〕 朝臣 秀吉
かんぱく はしば〔きのした〕 ないだいじん〔通称はとうきちろう〕 とよとみ〔たいら〕 の あそん ひでよし
・長宗我部 宮内少輔〔土佐守。通称は弥三郎〕 秦 朝臣 元親
ちょうそかべ くないのしょう〔とさのかみ。通称はやさぶろう〕 はた の あそん もとちか
・黒田 官兵衛 源 孝高〔祐隆、好高、孝隆〕
くろだ かんべえ みなもと の よしたか〔すけたか、よしたか、よしたか〕
・十河〔三好〕 孫六郎〔三郎。官職は民部大輔〕 讃岐〔源〕 朝臣 存保〔正安、政泰、存康、義堅〕
そごう〔みよし〕 まごろくろう〔さぶろう。官職はみんぶのたゆう〕 さぬき〔みなもと〕 の あそん まさやす/ながやす〔まさやす、まさやす、まさやす/ながやす、よしかた〕
・長宗我部 弥三郎 秦 信親
ちょうそかべ やさぶろう はた の のぶちか
・羽柴〔木下〕 中納言〔通称は小一郎〕 豊臣〔平〕 朝臣 秀長〔長秀〕
はしば〔きのした〕 ちゅうなごん〔通称はこいちろう〕 とよとみ〔たいら〕 の あそん ひでなが〔ながひで〕
・利光 越前守〔通称不明〕 藤原 朝臣 鑑教〔宗魚〕
としみつ えちぜんのかみ〔通称不明〕 ふじわら の あそん あきのり〔そうぎょ〕
☆武家の「通称」の普及を切に願います!

参考
事代主のブログ
袖鏡
お寺さんぽ Ver.03

/
記事を読んでいただき、ありがとうございました!他の記事もぜひご覧下さい!

threadsX(旧twitter)facebookでのフォロー、お待ちしてます!


☆「この人の書いてること、ちょっと面白いかも」と思った方はぜひメルマガ登録してみてください!

歴史を学んで、知識をつけるだけではなく「歴史を活かして自分の生きたい人生を歩む」というテーマで、ブログでは語れない話などを書いています。

↓こちらの画像をタップしてください↓


また、メルマガに登録してメルマガに記載されているメールアドレス宛にリクエストを送っていただければ、順次お応えします。

・○○(武将、合戦等)について語ってほしい
・大河ドラマ(『軍師官兵衛』以降)について語ってほしい
・今、○○について悩んでいるが、どの武将を参考にしたらいいか

…等々

ブログと違ってほぼリアルタイム配信なので、会話をしているかのようなコミュニケーションが楽しめます!

登録、お待ちしています!

※メルマガが迷惑メールフォルダや「プロモーション」フォルダに入っている可能性があります。
不定期配信なので、ちょこちょこチェックして、迷惑メールフォルダ等に入らないように設定しておいてください。




ブログランキング参加中!
クリックをお願いします。

にほんブログ村 歴史ブログへ
にほんブログ村


歴史ランキング