各合戦の動員人数について(4)第一次国府台の合戦 | 歴史愛~歴史を学び、実生活を豊かにする~

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「温故知新」とは言いますが、世の中を見渡すと表面的な教訓ばかりでイマイチ実生活に活かすことのできない解説ばかりです。歴史的な出来事を、具体的な行動に置き換えて実生活をより豊かにし、願望を実現する手助けになるように翻訳していきます。


※こちらの記事は、平成30年3月4日に書かれたものです。

皆さんこんばんは。
今回は「各合戦の動員人数について」シリーズの4回目で「第一次国府台(こうのだい)の合戦」についてです。
今回は『歴史と旅』増刊「日本合戦総覧(昭和63年1/10臨時増刊、秋田書店)」の長谷圭剛氏の記事を参考にしています。
※記事下部に武家や公家の人物名の読み仮名を載せています。


合戦の経緯について詳しく知りたい方は、下記リンクをタップしてください:
第一次国府台の戦いに学ぶ―「~はずがない」は失敗フラグ

関連記事:
各合戦の動員人数について(6)第二次国府台の合戦

関連記事:
『関八州古戦録』


今までの記事
第1弾 江古田原沼袋合戦
第2弾 権現山の戦い
第3弾 新井城の戦い

「第一次国府台の合戦」はどんな戦いかというと…




いつもの通り詳しくは下記ブログを見ていただきたいのですが(特に『薔薇の古城』さん)、簡単に言うと、天文(てんぶん)7年(1538年)に足利将軍家(あしかが・しょうぐんけ)の一族である古河公方(こがくぼう)の足利高基の弟義明が高基に叛旗を翻し、千葉県千葉市(ちばけん・ちばし)の小弓(おゆみ)城〔現在の生実(おゆみ)、おゆみ野〕に拠って「小弓公方」を称し、高基の子晴氏に味方する後北条氏の氏綱〔北条早雲の子〕を討つために安房(あわ)の里見義尭を誘って下総国府台(しもうさ・こうのだい)のあたり〔現在の市川(いちかわ)市・松戸(まつど)市のあたり〕で戦った出来事です。


北条家の戦いをもっと知りたい場合は、下記リンクをタップしてください(関連記事に飛びます):
小田原征伐に学ぶ―相手に口実を与えない

同関連記事;
河越城の戦いから学ぶ―基準を満たすまで手綱を緩めてはいけない

同関連記事:
新井城の戦いから学ぶ―慎重に準備し、且つ大胆に行動すべし


簡単に言い過ぎて里見(さとみ)氏の内紛も、真里谷武田氏(まりやつ・たけだ)の内紛も省略しましたが、ていうか真里谷武田氏は名前すら出てきませんが、要するに、関東公方(かんとうくぼう)足利氏の対立に乗じて後北条(ご・ほうじょう)氏が下総・上総(かずさ)進出を目論んだわけですね。

※合戦の詳しい様子はこちらをご覧下さい。
関連記事:
第一次国府台の戦いに学ぶ―「~はずがない」は失敗フラグ

この戦い、上記『歴史と旅』には北条軍2万人、足利軍1万人と書いてありますが、下記『今日は何の日?徒然日記』さんによれば北条軍5,000人、足利軍1,000人くらい、『薔薇の古城』さんによると北条軍7,000人、足利軍3,000人と、てんでばらばらなんですね。

結局、出典の文献によってばらばらなんでしょうが、石高(こくだか)で考えてみるとどうでしょうね(参考:大名(だいみょう)が動員できる人数は?)。

北条軍は
・2万人説→約57万1,000石分
・7,000人説→約20万石分
・5,000人説→約14万3,000石分

足利軍は
・1万人説→約28万6,000石分
・3,000人説→約8万6,000石分
・1,000人説→約2万9,000石分

となります。

そして、実際の北条氏の当時の領地は伊豆(いず)一国・相模(さがみ)一国+武蔵(むさし)3分1くらいと考えると(参考:大国・上国・中国・下国一覧)、約48万7,000石→動員人数は約1万7,000人。

2万人には達しませんね。

ちなみにこの戦いは北条氏にとっては「外征」なので、上記「大名が動員できる…」さんの外征は万石当たり200人、という考えによると約1万人となります。

一方で、足利氏単体の勢力は不明ですが、安房里見氏、上総〔真里谷〕武田氏を糾合していることを考えると安房4万5,000石+上総37万9,000石で約42万4,000石となります→動員人数は約1万5,000人。

北条氏とは逆に、上記各説よりも圧倒的に多い人数ですね。

とはいっても足利氏は単独で上記の石高を支配していたわけではないので(真里谷武田氏や里見氏に祭り上げられていた)上の「1万5,000人」は里見氏や協力関係にあった上総の豪族の人数も入っていると考えると、かえって3,000人とか1,000人という数字は信憑性が出てくるのかもしれません。
※令和6年1月9日注:Xのフォロワーさんの推測によると、小弓公方家は真里谷武田家ほど石高の領地を有していた可能性もあります。


という訳で、どれも数字がばらばらすぎてどれがリアルな数字かわかりません 笑

結局北条氏は外征なので、上の「約1万人」にいちばん近い数字は「薔薇の古城」さんの7,000人となりますので、僕はこの説を支持しようと思います。

結論
北条軍7,000人(約20万石分)vs足利軍3,000人(約8万6,000石分)
(このシリーズの前の3回分のデータで考えてもこのくらいが妥当かもしれません)

今回登場した武将のフルネーム
・【古河公方】足利 (官職・通称不明) 源 (朝臣?) 高基〔高氏〕
【こがくぼう】あしかが (官職・通称不明) みなもと の (あそん?) たかもと〔たかうじ〕
・【小弓公方】足利 右兵衛佐〔通称不明〕 源 朝臣 義明〔法名空然〕
【おゆみくぼう】あしかが うひょうえのすけ〔通称不明〕 みなもと の あそん よしあき〔法名くうねん?〕
・【古河公方】足利 左兵衛督〔通称不明〕 源 朝臣 晴氏
【こがくぼう】あしかが さひょうえのかみ〔通称不明〕 みなもと の あそん はるうじ
・北条〔伊勢〕 左京大夫〔通称は新九郎〕 平 朝臣 氏綱
ほうじょう〔いせ〕 さきょうのだいぶ〔通称はしんくろう〕 たいら の あそん うじつな
・伊勢 左京大夫?〔通称は新九郎〕 平 朝臣? 盛時〔長氏、入道早雲庵宗瑞。いわゆる北条早雲〕
いせ さきょうのだいぶ?〔通称はしんくろう〕 たいら の あそん? もりとき〔ながうじ、入道そううんあんそうずい。いわゆるほうじょうそううん〕
・里見 刑部少輔〔通称は権七郎〕 源 朝臣 義尭
さとみ ぎょうぶのしょう〔通称はごんしちろう〕 みなもと の あそん よしたか

※画像はイメージです。

参考
今日は何の日?徒然日記
鳳山雑記帳
薔薇の古城

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