自動車泥棒 | シネマ、ジャズ、時々お仕事

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1964年 東宝 監督 和田嘉訓 脚本 和田嘉訓
(あらすじ:ネタバレあります)
黒人との混血孤児・酋長(安岡力也=現力也)は、修道女・岩波(細川ちか子)が経営する孤児ホームのリーダー格。しかし、度々、アントニオ(フランツ・フリーデル)ら配下を引き連れてホームを脱走するため食事抜きの罰を受けている。修道女とは名ばかりで、細川のホーム経営は軍隊さながらの厳格さだ。力也は自動車の部品を少しずつ盗み出し、ホームの片隅の作業場に隠匿している。部品を集めて自動車を作り、それでホームから出て行くことが彼の夢だ。「車を盗んだ方が早い」と同じ黒人混血児・ハツコ(デビー・シェス=現真理アンヌ)は呆れ顔。ある日、力也はアンヌが大学生(寺田農)と関係を持ったことを知り、寺田をボコボコにする。しかし、寺田とアンヌはその後も密会を続け、遂に力也は寺田をホームに拉致してしまう。力也は寺田が運転免許を持つことを知ると、それなら車を組み立てられるだろうと無茶なことを言い出す。当初は力也に反発していた寺田だが、やがて車作りに没頭し始める。残るはエンジンのみとなった時、ホームの10周年記念パーティーが開催され、大師(B・ハッサム)が黒塗りのベンツで乗り付けた。ここぞとばかり、力也らはベンツのエンジンを取り外してしまい、ハッサムや細川が呆然とする中、エンジンを失ったベンツは修理屋に牽引されていった。寺田の尽力で遂に車が完成、ホームの扉をぶち破って、力也、寺田、ワラジ(田沢幸男)の3人はホームを脱出。力也は一路、横須賀を目指した。横須賀で銀行を襲撃して金を奪い、アフリカに密航する計画だった。しかし、不運にもその横須賀で、力也は風貌から脱走兵に間違われ、しかも強盗用におもちゃの機関銃を携えていたために、MPに追われるハメになる。砂浜に追い詰められた力也は車共々、炎の中に姿を消した。だが、寺田には力也の死が信じられない。太平洋をヨットに乗って故郷・アフリカへ向かったように思われるのだ。
(感想)
まだ20歳代だった和田嘉訓監督のデビュー作です。当時、東宝は50年代末の石原慎太郎監督抜擢事件の際に、助監督の大量監督昇進を行った後遺症からか、その時に助監督留め置きになった若手にはなかなかメガホンを取る機会が回ってこず、慎太郎の如水会同期・西村潔辺りはさして年齢の変らない須川栄三や恩地日出夫のチーフ助監督の座に燻っていました。後に和田監督よりもずっと有名になる森谷司郎や出目昌伸辺りを差し置いて監督に指名されたのですから、相当に期待されていたことは間違いないと思われますが、本作は商業的に大失敗。さらに、力也ら性的に奔放な出演者を集めたために、彼らがスタディオのそこかしこでHを始めてしまい(藁)、その話が「清く正しく」をモットーとする藤本真澄GMの耳に入ったことから、和田監督は助監督に降格された上、「蟄居謹慎」を命じられてしまったそうです。藤本配下の金子正旦Pなんかは「和田カクン、映画もカクンで干される」(ハハハ)とか言っていたそうですが、お陰で本作、その後、滅多に上映機会がなく、何年か前、これが芸能界デビューだった力也もTV番組でもう一度観たいと言っていたような記憶があります。
観客が入らなかったのは、明らかに和田監督自身の筆になる脚本が、特に後半、全く破綻しているからでしょう。わざわざ車を盗むのではなく、自分で部品から作り上げるという前半の仕掛けが、後半、車が完成してからのストーリーに対して、全く伏線として機能していません。横須賀に行って銀行強盗を仕掛けるのが本来の目的であったとすれば、何で何年も時間をかけて車を組み立てたりするでしょうか? わざわざイタリー系白人とのハーフである力也や、インド系ハーフの真理アンヌに黒いドーランを塗って、アフロ・アフリカン系に偽装した点も不可解。もし、力也の目的地をアフリカにするために無理やりに置いた設定とすれば、5年も前の「キクとイサム」の世界観に未だに捉われていたことになり、いずれにしても映像の斬新さとは距離があるシナリオのような気がします。
もともと、和田監督は演出と脚本の両刀遣いで、先に触れた「蟄居謹慎」時代には、身体が空いていたせいもあってか、須川栄三監督の下で実相寺昭雄らが持ち込んだ脚本の手直しを担当していたようです。その草稿を見た白坂依志夫の証言によれば、きわめて原作に忠実な、オーソドックスなシナリオライズだったとか。とすると、本作における脚本の破綻は、技術的な問題というよりは、和田監督自身にストーリー・テラーとして能力が乏しいことを反映しているように思われます。まぁ、他人の書いた物の直しはうまいが、自分では書けない、という東大出にありがちなことですかね(藁)。
この後、和田監督は、「クレージー黄金作戦」の中のクレージー・キャッツの音楽ショー場面の演出を担当してナベプロの美佐副社長に気に入られ、ドリフターズ映画のメガホンを取ることになって、一躍、売れっ子監督の座に躍り出ます。「…黄金作戦」は3時間近い尺に辟易してしまう、冗長な作品ですが、この音楽ショーと、ラズヴェガスの街路での(大半は砧の駐車場で撮ったらしいですが)クレージー群舞シーンの勢いは素晴らしいものがありました。20年以上前、大瀧詠一の監修で東宝ビデオからクレージー映画の名場面を集めた「クレージー・キャッツ・デラックス」というVHSが発売され、私も擦り切れるほど観た覚えがありますが、そのクライマックスを飾っていたのもこの2シーンでした。しかし、好事魔多しで、ドリフが松竹に引き抜かれてしまい、映画を撮る機会がめっきり減った和田監督、東宝を辞めただけではなく映画演出からも足を洗い、ソニーの広報部に転籍してしまったそうです。ソニーで和田監督がどのような仕事をされていたかは、寡聞にして私の感知するところではありませんが、70~80年代の斬新なソニーの映像PR戦略のいくばくかを監督が担っていたと想像するだけでも楽しいじゃありませんか。結局、この人は、コマーシャルな制約の下で、優れた映像センスのみを発揮させるという、今の言葉で言うところの「マルティ・メディア・クリエイター」的な仕事が最もあっていたのかもしれません。