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トロントのお散歩

カナダ・トロント在住、キリスト教会の牧師が、普段のトロントでの生活や、考えていることを書き綴ります。

小説が好きな方であれば、芥川龍之介が絶賛した短編小説があると知るなら、それを読みたいと思うだろう。

 

 

 

 

その短編小説は聖書にある。

 

 

イエスが民衆に語った「たとえ話」であり「放蕩息子のたとえ」(The Parable of the Prodigal Son)というタイトルで有名である。

 

 

芥川龍之介は、「放蕩息子のたとえ」「史上最高の短編小説」だと評した。

 

 

このたとえ話はあまりにも有名で、北米の教会でも頻繁に説教で用いられる話なので、ある教会では「もう、放蕩息子のたとえを用いて説教をしないで欲しい!」と言ったとか。

 

 

新約聖書の「ルカによる福音書」15章11節から32節がそれにあたる。

 

 

原稿用紙3枚もないので、ぜひ読むことをお勧めしたい。

 

 

聖書を持っていなくても、インターネットですぐに読むことができる。

 

 

 

 

内容を簡単にまとめると、以下のようになる。

 

 

登場人物は裕福な父親、真面目な長男、放蕩息子の弟の3人だ。

 

 

あらすじは、弟が父親に財産を分けて欲しいという失礼な願いをするところから始まる。

 

 

当時の文化では考えられないことだったが、父親は財産の半分を弟に渡す。

 

 

弟はすぐに財産と荷物をまとめ、都会へ行って放蕩の限りを尽くし、全財産を食いつぶして惨めな生活を送る。

 

 

腹を空かせ、豚の世話をしていた放蕩息子は我に帰り、悔い改めて「父親のもとで雇い人の一人にしてもらおう」と帰郷することを決意する。

 

 

父親は息子の姿を探し求め、毎日その姿を遠くから見つけようとしていた。

 

 

ある日、ボロボロの姿の息子を遠くに見つけた父親は走って彼を迎えた。

 

 

当時は分別のある大人が走るのは、はしたないことだったにもかかわらずである。

 

 

 

 

父親は息子を抱きしめ、口づけして、しもべたちにこう言った。

 

 

 

 

『急いで一番良い着物を持って来て、この子に着せなさい。それから、手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせなさい。そして肥えた子牛を引いて来てほふりなさい。食べて祝おうではないか。 この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから。』

 

 

父親は、放蕩息子が「雇人の一人にして欲しい」と言おうとした言葉を最後まで言わせなかった。

 

 

この父親は、息子がどんなに愚かで、父を裏切り、欲望の限りを尽くそうとも、息子を愛することをやめなかった。

 

 

そして悔い改めた息子を無条件で迎えたのである。

 

 

 

 

祝宴が始まると、それを知った真面目な兄が怒って家に入ろうとしなかった。

 

 

自分は弟と違い真面目に生きて来たのに不公平ではないかと。

 

 

放蕩の限りを尽くし、財産を使いきって帰ってきたドラ息子にはどうして豪華な祝宴を開くのか。自分にはそんなことをしてくれなかったのに。

 

 

この兄の態度には多くの人が共感するかもしれない。

 

 

ほとんどすべての人が自分は放蕩息子の弟のようではなく、真面目な兄のように生きてきたという自負があるからかもしれない。

 

 

物語は、父親が真面目な兄をなだめて語るところで終わる。

 

 

 

 

この短い物語を客観的に読めば、確かに良い話だと思える。

 

 

しかし、なぜあの芥川龍之介をして、この放蕩息子のたとえ話を「史上最高の短編小説」と言わしめたのか、あなたにその理由が分かるだろうか。

 

 

その理由を、何回かに分けて一緒に考えていきたい。

 

 

明日につづく…

 

 

 

それではまた次のお散歩の時に。

Until our paths cross again!