前回に引き続き、芥川龍之介が絶賛した短編小説、「放蕩息子のたとえ」について考えていく。
芥川は、幼少期に熱心なキリスト教徒の叔母に育てられたこと、また東京帝国大学で西洋文学に触れたことにより、キリスト教思想に興味を持った。
同時に、芥川自身もキリスト教的テーマの作品を執筆している。そのテーマは、罪・救済・信仰・良心の葛藤など多岐に渡る。
多くの人がお気づきかもしれないが、この「放蕩息子のたとえ」の「父親」は神を表している。
「放蕩息子」は、神から離れてしまったが再び神のもとに帰っていく人々を表している。
そして「真面目な兄」は、外面的には神に従っていた人々を表している。
この物語の最後の部分は次のように書かれている。
「すると父は言った、『子よ、あなたはいつもわたしと一緒にいるし、またわたしのものは全部あなたのものだ。しかし、このあなたの弟は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから、喜び祝うのはあたりまえである』」ルカ15章31,32節
ところで、発達心理学者のジャン・ピアジェは、子どもがどのように善悪に対処するかを理解しようと、おはじきで遊ぶ子どもを研究した。
彼はその過程で、子供達が3つの段階を通過することに気づいた。
第一段階は、幼い子どもたちが議論の余地のない権威者から、つまり父親から言われたとおりにゲームのルールを受けいれる、「ルールの段階」である。
ルールは従わなければならないもの、楯突くことのできないものである。ゲームに勝ちたいなら、そのルールを守らねばならない。
第二段階は、年長の子どもたちが伝統的ルールに楯突き、自分たちが作った新しいルールを試し始める「反抗の段階」である。
第三段階は、成長した子どもたちが自作したルールの愚かしさに気づき、互いに対する尊敬の念から(権威によってでなく関係のために)元のルールに戻る「関係の段階」と呼ばれるものだ。
イエスのたとえ話は、これらの3つの段階に関する話であった。
放蕩息子(第二段階)は、財産の分け前を受け取るとすぐに都会に出て行き、財産を浪費して豚小屋に行くことになる。
しかし正気に戻り、夜も昼も彼を待っていてくれた父親(第三段階)のいる場所へ帰っていく。
その夜開かれた大きな宴会を知り、嫉妬で怒る兄(第一段階)は、父親と喜びを分かつことを拒否した。
あなたはどの段階にいるだろうか?
第一段階である、家にいながらも失われている「ルール少年」。第二段階である、家を出て失われている「反抗少年」。第三段階である、いずれの少年も愛している「理性的な父親」だろうか?
芥川龍之介は、キリスト教徒ではなかったが、キリスト教の特徴である、愛や赦しに憧れていた。
また、同時に人間の持つ罪の意識、その救済について関心を持つと同時に疑問も持っていたのである。
芥川は、神の限りない愛と、そこに戻っていく滅びから救われた弟を見ながらも、弟に対して嫉妬と妬みを捨てられない兄の姿に、現実のどうしようもない自分の心を照らし合わせていたのではなかろうか。
イエスの語った福音は、神が何よりも関係を大切にしているという点が肝である。
芥川の「神との関係」への限りない憧憬と、自分自身の心の弱さとの葛藤が、この聖書の短編小説に彼が惹きつけられた大きな理由ではなかったかと思う。
次回は、芥川龍之介が聖書を読んで感じていた「内面的な葛藤」を探っていく。
それではまた次のお散歩の時に。
Until our paths cross again!





