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トロントのお散歩

カナダ・トロント在住、キリスト教会の牧師が、普段のトロントでの生活や、考えていることを書き綴ります。

芥川龍之介の著書にはキリスト教を題材にした作品が多くある。

 

 

 

 

彼は、聖書の倫理観や文学的な美しさに惹かれていた。

 

 

しかし、それが信仰に結びつかなかった理由がいくつかある。

 

 

芥川は「信仰とは何か?」という問いを繰り返し自身の作品の中で問うているが、伝統的な日本の価値観や、仏教・儒教的な考え方が、キリスト教の教えを受けいれることを難しくしていたようである。

 

 

芥川には、精神的に病んでしまった母親がいた。また彼は、複雑な家庭環境にあったゆえに、精神的な苦悩が彼の人生に影を落としていた。

 

 

彼の晩年の作品には、死や絶望といったテーマが増えていったが、そこにキリスト教の「救い」という希望を見いだせなかったことが伺い知れる。

 

 

そのような意味で、「放蕩息子のたとえ」には、彼が求めていた神による無条件の「愛」と「救い」が描かれていたが、芥川は、自身が抱いていた価値観や苦悩を手放すことができなかった。

 

 

 

 

彼が、イエスが語ったこのたとえを「史上最高の短編小説」と評したのも、そこに自分が求めてやまなかった理想の「愛」と「救い」の形を見たからではないかと思う。

 

 

芥川は、服毒自殺を図って命を落としたが、そのすぐ前には睡眠薬の過剰摂取で泥酔状態になっていた。

 

 

彼は、自身の死に対する捉え方の内面の変化についても書き記しているが、そこには「本当は生きたかった!」という切なる願いが見え隠れしているように思うのは私だけではないだろう。

 

 

放蕩息子である弟はルールを無視し反抗する「リベラル」に位置し、良い子にして家にいた兄は「保守」といえるかもしれない。

 

 

しかし、両者とも最後の最後になるまで、神である父親の思いを理解できなかった。

 

 

父親が兄に語った言葉に、父が2人とも心から愛していたことが記されている。

 

 

すると父は言った、『子よ、あなたはいつもわたしと一緒にいるし、またわたしのものは全部あなたのものだ。しかし、このあなたの弟は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから、喜び祝うのはあたりまえである』ルカ15章31,32節

 

 

つまり、父は兄に対して「わたしの持ち物は、すべてお前のものだ。私が望んでいるのは、お前だけなのだ」と語っている。

 

 

芥川は、世の中の常識・思考・ルールに囚われていたゆえに、最後は理想との板挟みになり、苦悩のうちに逝ってしまったのではなかろうか。

 

 

物語の父親は、2人の息子の双方を探すために家を出ていった。

 

 

いずれも同じ父親、両腕を広げて包容してくれる父親、愛情深い心を持った父親である。

 

 

 

 

神にとって最も重要なものは、終始一貫して「関係」であるという真理を、芥川は見逃していたのかもしれない。

 

 

神は、破られたルール・規則を修復したり、罰するために急いで出ていくのではなく、破れた関係を修復するためにご自分の子らに向って行くのである。

 

 

 

 

もし、芥川がそのことを理解していたならば、彼の人生はもっと違ったものになったのかもしれない。

 

 

 

それではまた次のお散歩の時に。

Until our paths cross again!