あなたは知っているだろうか。想像できるだろうか。
私たちの地球は、秒速30キロメートルの速さで太陽の周りを回り、太陽は太陽系の惑星を引き連れながら、秒速20キロメートルの速さでヘルクレス星団の方向に向かって動いている。
さらに、ヘルクレス星団は太陽系を伴って、銀河系の中心を半径3万光年の円を描きながら、秒速300キロメートルという超高速で宇宙空間を走り続けている。
この銀河宇宙には、太陽のような恒星が1000億個も存在し、さらに観測可能な宇宙には何十億という銀河宇宙がちりばめられている。
近代科学の出発点には、神がこの世界を、宇宙を創造したというキリスト教信仰があった。
近代科学の基礎を造り上げたコペルニクス、ガリレオ、ケプラー、ニュートンなどの著作を読むと、彼らの前提には神がこの世界を造り、整然とした秩序をこの世界に与えたこと、そしてこの美しい秩序が自然の中に読み取ることができるという確信があったことが分かる。
ガリレオは「神は二つの書物を書いた。一つは聖書であり、もう一つは自然である」という有名な言葉を残している。
近代科学はどうして唯一、西ヨーロッパに、しかも近代という時代にのみ生まれ育ったのか、という問いに対して、科学史家・村上陽一郎東大名誉教授は、具体的史実を列挙した後、「近代自然科学は根本的には、キリスト教信仰の賜物であり所作」であったと結論づけている。さらに彼はこう言っている。
「彼らは、キリスト教的偏見を捨て、宗教的妄想から解放されてありのままの自然をみたから『自然科学的真理』に到達することができたのではなくて、この世界を創造主である神が合理的に造り上げたというキリスト教的偏見をもっていたからこそ、『自然科学的真理』を得ることができたといえるのではないでしょうか。
『近代自然科学』なるものが、キリスト教のような『非科学的』な迷信から解放された結果として、つまり、誤った偏見や先入観を捨て去った結果として、誕生したという通説は、まったく根拠をもたないことがはっきりしたと思います」(『新しい科学論』)
たとえば、惑星の運動についての有名な三法則を発見したケプラーは、実に何年もの間、この法則を見つけるまで複雑な計算に挑んだ。
毎日毎日、気の遠くなるような計算を繰り返している間、彼を支えたものは、この世界は神によって創造されたがゆえに、神の秩序があり法則があるという確固たる信仰であった。
そしてついに「惑星の公転周期の二乗と公転半径の三乗との比は一定である」という結果に達したとき、彼は「神の偉大さを示すことができた」と躍り上がって喜んだのだった。
聖書は自然界における神の栄光について次のように称えている。
もろもろの天は神の栄光をあらわし、
大空はみ手のわざをしめす。
この日は言葉をかの日につたえ、
この夜は知識をかの夜につげる。
話すことなく、語ることなく、
その声も聞えないのに、
その響きは全地にあまねく、
その言葉は世界のはてにまで及ぶ。
(詩編19編1-4節)
次回に続く…
それではまた次のお散歩の時に。
Until our paths cross again!