日本で牧師をしていた頃、多くの方からキリスト教について色々と聞かれることがあった。
だが、アメリカやカナダに来てからは誰にも質問されることがない。
それは、北米ではキリスト教が土着のものとして定着しているため、教会がどんなものであるかを良く知っているからだ。
それもそのはずで、アメリカ人の70%、カナダ人の63%がキリスト教徒である。
また、ヨーロッパは長い歴史の中でキリスト教文化と共に歩んできたので、クリスチャン人口はもちろん多い。
(下の写真は、家族で旅行した時に撮影した、モントリオールにあるノートルダム大聖堂)
ちなみに、日本のクリスチャン人口は約1%と極少数派だ。
西欧の人が日本人とその文化を理解するのには時間がかかると言われている。
だからこそ、第二次世界大戦中アメリカ軍は、文化人類学者ルース・ベネディクトに日本人とその文化を分析させて、「菊と刀」が執筆されたのである。
それは裏を返せば、日本人が西欧の人々のことを本当に理解するにも時間がかかるということであり、そのために、キリスト教を知ることは避けて通れないように思うのだ。
彼らの思考回路は、聖書の影響を強く受けており、文化として根差している。
今でもアメリカやカナダでは、キリスト教を知らないと教養や常識がないと思われる。
また、イスラエルとパレスチナ問題にしても、聖書の旧約聖書を紐解けば、その複雑な理由も分かってくる。数千年も同様なことを繰り返しているのだ。
そもそも、西欧のあらゆる芸術、音楽、文学などは、聖書に由来していると言っても過言ではないが、その大本の所に根差している聖書の思想は無視して、表面だけを見ても、あまり意味がないように思えるのだ。
日本人も好んで聞く偉大な音楽家である J.S.バッハは、作曲した楽譜の最後には必ず「SDG」と書いていることは良く知られている。(世界中で声高に叫ばれている「SDGs」ではない)
これは、ラテン語で「Soli Deo Gloria」の略であり、「ただ神のみに栄光あれ」という意味である。
バッハの信仰や、彼の生き方を知ることは、偉大なバッハの音楽を理解し、より一層楽しむために大きな助けになることは間違いないだろう。
そもそも、日本人の多くの人々が持つ「宗教観」は偏っているのかもしれない。
勿論、オウム真理教や、統一教会などを怖いと思うのは当然であろう。
しかし、それを踏まえても、「日本人は宗教に関して無頓着であり、少々節操がない」と言う人もいる。
日本人の年末年始は、僅か一週間の間に、キリスト教、仏教、神道とコロコロと宗旨替えをしているようにも思える。
ただ、「これも日本人の愛すべき民族性と文化である」と言えばそうかもしれない。八百万の神は伊達ではないのだ。
私が大学の時、宗教学の教授から次のように言われたのを覚えている。
「宗教とは生活に根ざしたものであり、それぞれの生き方において信じているものが、その人の宗教と言える」と。
一般に宗教は「超自然的な力や存在に対する信仰と、それに伴う儀礼や制度」であるという。
つまり、大谷翔平は野球選手として、野球というスポーツに人生のすべてをかけているが、それが彼の生き方の中で、確信を持って大切にしている彼の信仰、宗教と言えるというのだ。
また、日本人の多くが自分は「無宗教」だと分類するが、それも「既成の宗教を信じない」という信仰であり、宗教であるというわけだ。
ただ闇雲に「宗教」を、その組織とかあり方などで、すべてを一緒くたにして怖がるのではなく、個々人の生き方における信念、信仰を知る機会と考えるのであれば、私たちの視野はさらに広がるのではなかろうか。
私が10年前、アメリカの大学院で学んでいた時、他宗教の礼拝に参加してレポートを書くと言う課題があった。
私は車で近い場所にあった、大きなイスラム教寺院に行ったのだが、それは新鮮な体験だった。
そこには「生活の匂い」があるように感じたのだ。それは彼らの文化であり、彼らの生き方に直結するものだ。
日本の仏教や神道も、海外の人が参加すれば同様であろう。
だからキリスト教は、何か特別なものという訳でなく、カナダなら、ここにいる人々の「生活の匂い」がする文化なのだ。
私のいるトロント日系SDA教会も、キリスト教の文化において、大切なコミュニティーとして機能している。
老若男女、人種や国家を問わず集まってきて、教会の玄関を入って来る者はすべて歓迎するのである。
この土曜日も、午前中は一緒に聖書の学ぶ時間を持ち、楽しく過ごし、その後は昼まで礼拝があった。
お昼ごはんは、一緒に食事を持ち寄って(ポットラック)、舌鼓を打ちつつ、楽しく交わる。
(下の写真は食事が始まる前で、これからテーブルいっぱいに、持ち寄りのおかずが並べられ、人でいっぱいとなる。)
午後は色々な集会があるが、ここしばらくは未経験者たちが集まって(なんちゃって)聖歌隊でハレルヤコーラスの練習中である。
音がズレまくっても楽しいものだ。
そして今回は夜、教会の青年会主催でボーリング大会となった。7レーンを借りて40人の若者たちが集まった。
週に1回の礼拝の日をフルに楽しんで、霊的、肉体的、精神的に満たされて、新たな1週間を始めるのだ。
日本でも「コミュニティー」という、それぞれの所属する場所と空間の大切さが問われている。
会社だけの付き合いや、一時的なコミュニティーも大事であろう。しかしそれだけではなく、一生続くコミュニティーが必要ではないかと思う。
キリスト教は、いわゆる「誕生から墓場まで」共にいるコミュニティーだ。
その親密度は、ある人にとっては家族以上になる場合もある。
だからこそ、トロントの私のいる教会だけでなく、あなたのいる場所でも、関係が持続する目標(SDGs)ではなく、ただ神にのみ栄光あれ(SDG)という豊かなコミュニティーも良いものではないかと思う。
食わず嫌いは損するだけだ。
何かしら、あなたの人生を豊かにする出会い、経験がきっとあるだろう。
SDG!
それではまた次のお散歩の時に。
Till our paths cross again!