…ということで、『ポップ・アート 時代を変えた4人』展@山梨県立美術館の展示を振り返ってまいります。ここで言う「時代を変えた4人」とはアンディ・ウォーホル、ロイ・リキテンスタイン、ロバート・ラウシェンバーグ、ジャスパー・ジョーンズのことなわけですが、まずは知名度の点で最も有名なウォーホルのことを(展示構成ではリキテンスタインが先に来てましたけれど…)。

 

 

ウォーホルの作品で誰しも思い浮かぶのはキャンベルのスープ缶ではなかろうかと。大量生産大量消費の時代風潮をスープ缶に託した風刺と理解されるところでして、上のフライヤーの左上に配されたマリリン・モンローの肖像も、映画女優と言う存在が大量生産大量消費の風潮を表すものであると受け止められたのでありましょうね。

 

たくさんのキャンベルスープ缶が並ぶ作品では、ラベルに書かれた文字の違い、つまりは缶の中身の違いが同じように見えて同じでない、バリエーションを提示することになっていたりしますが、マリリン(その他の人物肖像)の絵の方は配色をさまざまに変えてバリエーションを生み出したりしている。同じであるのか、違うものなのか、見方次第とも言えましょうが、見る側を揺さぶるところが、大袈裟に言えばアートたる由縁のひとつなのかもしれません。

 

元来、カーネギー工科大で学士号(芸術)を得るも専攻はデザイン系であったというウォーホル、作品はデザインであると言われればすっと入ってきますし、その制作意図に含みがあると聞けばアート然とも見えるわけですね。

 

作品の多くが複製可能なメディアで作られている点でも非常に商業的な側面と親和性が高いわけですが、例えば「シルクスクリーン」の技法を説明する展示解説に、インクのシミや版の擦れなどの点で同一のものを作れないものなのだと言われれば、まあ、そうでもあろうなあと。ただ、そこを根拠に一点ものと言いたかったわけでもないでしょうけれど、作品としての価値は一点ものであること、あるいは希少性によって高まることは事実ですねえ。

 

さりながらウォーホルの考えるところは、そんな俗人が考えるところからはもそっと先を行っているのですかね。版画的技法で作られた作品をよくよく見れば一点ごとに違いがある(それが希少性を生む)ところながら、当の本人は「機械になりたい」てな発言をしたのであるとか。むしろ商業的な大量生産物に求められているような(一点ごとの違いがあってはならない)均一性、均質性を機械は実現するからということでしょう。

 

まあ、キャンベルのスープ缶は近所のスーパーに行けばいくらでも目にすることができる、ありきたり極まりないものでありながら、それを「ポップ」としてこの上なくありが違った当時の世相。ニューヨーク五番街にある百貨店ボンウィット・テラーでは通りに面したショーウィンドウをウォーホルのスープ缶が飾ったりも。それが百貨店らしくプレタポルテの最新ファッションとして、スープ缶模様をあしらったドレスという形で。もはや社会現象のような状況だったわけですなあ。

 

そんな1960年代から半世紀以上経った今、ウォーホルはポップアートの旗手という看板は不動のものとなっていて、オークションなどの市場で作品は高額で取引されるのが当たり前ともなっている。近しいところでは今年2025年春に開館した鳥取県立美術館がウォーホルの立体作品「ブリロ・ボックス」5個を3億円で購入したことが話題になったりもしましたですね。

 

5個まとめてというあたり、ウォーホルの意図した(であろう)大量生産大量消費を展示で示すべく…てなふうに美術館側では考えたようなのですが、制作当時のウォーホルの意図はもはや夙に知られたところとなっていて、3億円という価格の作品実物をつぶさに見なければ大量消費の風刺に思いを馳せることができないわけでもなかろうにと思ったり。

 

その点、制作意図とは別に、結構金儲けの才のあった?ウォーホルの術中に絡めとられ続けているような気がしたものです。「自分の作品ながら、あらら、こんなに大量消費してくれて…」と、ウォーホルの冷笑が浮かんでしまったも。

 

確かにアート作品は「現物を目の当たりにすると、違うよねえ」とはよく聞くところであり、自身もそんなふうに思うことはたびたびあるわけですが、ウォーホルの場合には(その全てが、とは言わないものの)作品そのものよりも、作品制作の意図が伝わることが美術展としては求められるところなのでは…と思ったりもしたものなのでありました。