信州の諏訪湖畔にある北澤美術館を訪ねて、特別展『万国博覧会のガレ』を見てきたという話の続きになります。パリ万博の開催ごとに作品を出品し、高い評価を得てきたエミール・ガレですけれど、フランス以外の開催にまで出張っていくことはなかったのでしょうか、そのあたり特段の説明はされておりませんでしたけれど…。

 

ガレがガラス部門でグランプリを得た1889年パリ万博の次に開催地となったのはアメリカ、シカゴの博覧会でしたですね。で、ガレの出品しなかった1893年のシカゴ万博で「国際舞台に初登場」を飾ったのがドーム兄弟であったと。

 

 

これはシカゴ万博出品モデルのひとつということですが、ずいぶんと渋い作品のような気も。ドーム兄弟は元よりガラス工場を持っていたものの、「1891年に、新たに装飾工芸ガラスを制作する部門を設置した」(Wikipedia)そうですから、ガレに比べるとかなり後発ではありますけれど。

 

さりながら、シカゴに続くブリュッセル万博(1897年)ではガラス部門で金賞を受賞するほどに評価が高まってきており、装飾性と個性を磨いたドーム兄弟はブリュッセルでも不参加だったガレをやきもきさせる存在になっていたのかもしれません。ちなみにこちらは1895年作の扁壺『ロレーヌ公ルネⅡ世』、ガレもドーム兄弟もロレーヌ愛が強いですなあ。

 

 

ともあれ万博を通じてガラス工芸界は競争激化の様相となるわけながら、ガレももちろん黙ってはおらないのでして、「1900年に開催される次の万博に備え、…誰にも真似のできない高度な技法」を生み出していったとか。例えばガラスの象嵌装飾「マルケットリー」(1898年特許取得)はそうした技法のひとつだそうで。

 

 

「熔けたガラスの表面に、あらかじめ文様の形に整えた色ガラス片を埋め込み、再び過熱して素地にならし込む装飾法」ということでして、そのマルケットリーで作られたこの「オダマキ文台付花瓶」は1900年パリ万博の出品モデルであるということです(ブロンズ製の台座もガレ作と)。

 

それにしても、「万博でグランプリを獲得した者は、次からは審査員となるのが通例」だったとなれば、ガレは1900年パリ万博では審査員に回ってもおかしくなかったところ、新しい技法をもって挑戦したのには、(展示解説にはありませんが)やはりドーム兄弟とのライバル心があったのではないですかね。

 

間違いなくドーム兄弟は出品してくるであろうところ、ガレが審査員として高評価を与えるのも癪ですし、逆に評価を低めるようなことがあるとそれはそれで批判されたりもしましょうし。だからといって、勝敗ある場へ参戦して、先達のガレが負けるわけにもいかない。実に難しい状況の中、結果としてはガレ、ドーム兄弟ともどもグランプリ獲得なったようで。

 

 

ドーム兄弟の方もこんな清々しい作品を出品したのですから、双方痛み分けの同時グランプリもむべなるかな。されど、ガレの内心は微妙だったかもしれませんですねえ。なにしろ、「準備につき込んだ膨大な費用を回収できず心労が重な」たともいいますし。

 

そして、「1900年万博の賑わいが過ぎ去る頃からガレは病におかされ、療養の末に、1904年9月23日ナンシーで58歳の生涯を閉じ」ることになってしまったとは、ガレにはもう次に万博は無かったわけで、つくづくパリ万博と共に歩んだ生涯だったような。

 

時を経て改めてパリで博覧会が開かれたのは1925年、別名「アール・デコ博覧会」とも称されるだけに、ガラス工芸はルネ・ラリックの時代へと移っていたのであろうかと、しみじみ思うところでありますよ。