早くから暑い暑い日々が続くだけに、子供たちは「早く夏休みにならないかな」という思いを強めてもおりましょうかね。そんな折、記憶の奥底に埋もれていたものがふいと顔を覗かせたような次第。もっともその記憶の欠片が果たして本当の記憶であるのかもあいまいなのですけれどね。
昔々の夏休みの晩、小学校の校庭にわらわらと人が集まってくる催しが開催された(ような気がしている)。催しは映画の上映会、VODはおろかビデオ録画もない時代、映画を見る機会は映画館に行く以外にはありえなかっただけに、子どもも大人もこぞって集まったのではなかったかと。
といって何が上映されたものであるのかは全く記憶にない(だからこそ、記憶が嘘をついているのかもと思うわけですが、それはともかく)ですが、どんな内容、それが教育映画の類であってもニュース映画の類であっても、参加者はかなりの数に上ったことでありましょうね。映画のお楽しみを求めて。
とまあ、そんなことを思い出してしまったのはチャン・イーモウ監督作品の映画『ワンセカンド 永遠の24フレーム』を見ていたときのことでありまして。
話は1969年、文化大革命下にある中国ですので、そんなに懐かしい、楽しいてなことを言っておられるものでもないわけですが、そうであったとしても、一本のフィルムを次から次へと上映会場につないでいって、村々で順繰りに開催される映画会にはそれこそ村中の人たちが詰めかけてくるのですよね。時が時だけに、上映作品は共産主義プロパガンダを大衆受けするアクション映画で包み込んだらしき『英雄子女』(どうやら本当にある映画のようで)ですけれど、これを村人たちは心待ちにしているわけで。
「これはいい映画だ」と言う人がいるあたり、おそらくは何度も上映機会が巡ってきて、同じ映画であったも何度も見る。映画に接する機会が限られておればこそのことでしょう。かつて、映画館以外ではTVのロードショー番組(日本語吹替版であったのは当然のこと)で見るしかなかった昭和の子供も、同じ映画を放送のたびごとに何度も見てましたものねえ。『荒野の七人』などの西部劇やら、ショーン・コネリー主演時代の『007』初期作あたりはいったい何度見たことでありましょう。
と、我がことはともかくとして、本作の中では村に巡回してきた映画フィルムがあろうことか、砂まみれになってしまうというトラブルが発生(広大な砂漠の縁にある村が舞台なのが、本作の映像上のポイントでもありますね)、上映技師の指図のもとに村人総出でフィルムのクリーニング作業に邁進した結果、なんとか上映にこぎつける。そうまでしても、映画が見たいのですよねえ。
この映画の主人公は文化大革命のとばっちりで単なる喧嘩が原因で強制労働の科を受けるも、逃げ出してきた人物なのですから、現在の中国で言いたいことがストレートに言えるかは難しいような気がしますが、映画の主題はここまでに触れたような映画愛、映画オマージュではないとは言えましょう。そうではあっても、やっぱりこれはチャン・イーモウ監督の映画に対する愛情の顕れではなかろうかと。
ともあれ、そんなこんなに思いを馳せますと、映画というものが総体として質の低下が見られるとかそういうことでは全く無いだろうにも関わらず、かつてとは比べ物にならないほどお手軽なものになってしまいましたですねえ。お手軽に見られること自体は便利になったと言えましょうけれど、結果的に映画は消耗品になってもしまったような。まあ、個人的にもそういった消費形態に入り込んでしまっているともいえるのですけれど、この映画の砂漠シーンこそ大スクリーンでみるべきだったかもです。