1895年(明治28年)、夏目漱石は当時の松山中学へ赴任しますですね。松山が正岡子規の郷里であったのはたまたまかもしれませんけれど、折りしも日清戦争(1894-1895)に従軍記者として出かけた正岡子規が帰国の船中で喀血し、神戸と須磨で療養した後に松山へ帰郷してくるという。

 

そこで子規は旧知である漱石の下宿先に転がりこんで(?)50日余りの共同生活を送ったそうなんですが、その下宿先の部屋のようすが子規記念博物館再現されておりました

 

当時の漱石は自ら愚陀仏と号していたことから、下宿先は「愚陀仏庵」として子規を囲んで句作に励む集まりも行われていたのだそうで。そこで高浜虚子や河東碧梧桐あたりとも出くわしていたことでしょう。

 

そうした松山での出来事のあれこれ(もちろん松山中学でのこともですが)を思い出し思い出し、漱石は「坊っちゃん」を書いたのではなかろうかと。それだけに松山は「坊っちゃん」とゆかりが深いわけで、道後温泉の駅前にも定時になると「坊っちゃん」の登場人物が現われるからくり時計がありますし。

 

 

市電の線路を時折走る蒸気機関車の形をした電車には(いかにも路面電車らしいパンタグラフがついてるのが微妙~)「坊っちゃん列車」との名称が関してあったりもしますしね。

 

 

とまれ、先日はそんな雰囲気に囲まれてきたものですから、この際「坊っちゃん」を読んでみよう…でなくて、見てみようということに。子規記念博物館では何度か映画化されたうちの1977年版(中村雅俊=坊っちゃん)がダイジェスト映像で紹介されてましたもので。

 

ですが、ここではもそっと古い1953年版を見てみたですよ。坊っちゃん=池部良、山嵐=小沢栄太郎、赤シャツ=森繁久弥、野太鼓=多々良純、そしてマドンナ=岡田茉莉子というのが主なキャストでありました。

 

「坊っちゃん」というと(読んだのが遥か昔ですので、うろ覚えではありますが)ユーモア小説的に受け取られるところもあるわけで、それからすると主役の池部良はどないなものか?と思ったですが、「お、もしかして若い頃の漱石に似てる?!」てな個人的印象も。

 

笑える部分があざとくなくって、スカッとさわやかというか若者のもどかしさみたいなところも出ていたのではありませんですかね。


坊っちゃん役で唯一いささかの記憶にあるのはTVシリーズの竹脇無我で、道後温泉で泳いでしまうシーンが思い出されますけれど、池部坊っちゃんに比べるとちと落ち着きすぎだったかも(激したときに激しているように見えないとか…)

 

 

それに対して赤シャツの森繁久弥は、これはこれで、ことごとに笑いを誘うところが相変わらず見事ではあるものの、赤シャツの本来は気取り屋でそのお高くとまっているところが傍目に見ればおかしくて…というタイプでしょうから、「社長シリーズ」と同じようではどうなんでしょうねえ。

 

多々良純の野太鼓が太鼓持ちとして付き従っているものですから、余計に「社長シリーズ」の思えてしまうような。面白いと思いますし、芸達者だなとも思うだけに、悩ましい点ではありますよ。

 

ところで、映画の中でもたぁくさん使われていたのが「~ぞなもし」、「~なもし」という言い回し。松山の方の言葉なのですよね、きっと。味があるなあと思いましたけれど、思い返してみると先日の松山に出向いたときにはついぞ耳にすることはなかったような。

 

四国第一の大都会である松山(失礼ながら香川の高松のが大きいと思っていた…)ではお国言葉も薄れつつあるてなことなのでありましょうか。映画を見た後だから思うことやもですが、ちと残念な気がしたりもするのでありました。