しばらく前に新聞書評だかで見かけたタイトルだったものですから、近くの図書館で借りてみたというのが『なぜ鏡は左右だけ反転させるのか』でありました。

 

 

「なぜ左右だけ?」と問うからには、上下に反転しないことに対する答えがあったりするのであるか…てなふうにも。感覚的には、鏡は目の前のものを写して出している物理的な(でいいのかな?)現象であって、「反転してる?」という意識がありましたなあ。確かに自分自身が右手と自覚している手が、鏡の中の立場で考えれば右側にはないわけですが、これを反転というのであるか?とも。

 

ともあれ、どういう答えが出るものかと読み始めてから、副題に気付くのもなんですけれど、「空間と時間から考える哲学」とあったとは。つまりは物理的というか、科学的な話ではなくして、哲学のお話。いやはや、まいったな…という側面に何度もぶつかってしまいました。

 

大学で哲学を教えている著者は、至って平易に書いたということでして、授業では入門編のテキストにも使っているとはいえ、哲学と聞いて「いかに生くべきか」みたいことだけと考えるのは、大きな思い違いをしていたようでありますよ。

 

ただ、ともするとヒトが生きていること自体を「当たり前」と片付けてもしまいそうなところ、そこへ「?」を持ち込む姿勢は、どんなことでも同じように当たり前と思ってしまうことに(敢えて)疑問をさしはさんで思考する、それこそが哲学の真髄なのかもしれませんですね。

 

ですので「鏡に写る姿はなぜ左右反転するのか」としては、光の反射で…とかいう科学的なことで終わってしまうものと、「なぜ左右だけ…」と問うことでヒトの感じ方にフォーカスしていたりするわけです。もっとも、個人的には(先にも触れたとおり)反転しているとはあまり受け止めていないとそれまでの話になってしまいますが…。

 

素人考えでは「こんなに難しくするの?」というくらいに様々な説が提示、検証されていくわけですが、なかなかに付いて行きにくいとは先にも申したとおり。で、副題の「空間と時間から考える…」という点では、「なぜ鏡は…」の章が空間認識を扱っているのに対して、もうひとつの章で扱っていた「なぜ私たちは過去へ行けないのか」で時間感覚を扱っていて、こちらの方がまだ入り込みやすかったですかね。例示されるのが、映画の『ターミネーター』シリーズだったりしたものですから。

 

ですが、時間を扱った方でもやはり「そりゃ、過去にはいけないわいな」と当たり前のように思うところを考察するにあたり、そも「過去とは?」と切り込むあたりが哲学たる所以でもありましょうなあ。

 

極めて単純に「過去はすでに過ぎたことですから変えようもない、変わりようもない」とは思いがちながら、さらに進めて「変わりようのない過去には、新たに未来から誰かがやってきたてなことを書き込みようがない、だから行けないのだ」となると、得心してしまいそうですけれど、これはこれで科学的な説明ではないような。ここで定義済みと思しき「そもそも過去とは?」がはっきりさせなくちゃね、というわけです。

 

ま、空間、時間いずれの問いにも説明はなされるわけですが、なかなかに掻い摘んで「こうよ」とは言い難いところでもあり、著者の語るところに接するにはやはり本書に当たってもらう方がよろしいかと…と、これでおしまいにしてはあまりにも本書にぶんなげすぎですので、ここまで来てふと「!」と思った鏡写しの話を。

 

分針が15分を指している時計を鏡の中で見ますと、「あら、45分だったかね?!」と。先に人体の鏡写しでは「反転している感覚がおよそない」てなふうに言いましたですが、時計の分針を見誤る(15分なら右を指しているはずが鏡の中では左を指しているので45分と見える)のは、鏡写しに見ているものが人体ではないからでもありましょうか。

 

試しに(といって、実際にやらなくても検討はつくわけですが)時計の針が9時15分を指しているふうに、頭を左側、足を右側にして横たわったところを鏡に写してみるとどうなりましょう、というよりどう感じましょうか?左右が反転していると感じるならば、鏡の中では頭が右側、足が左側…って、そんなことはないですものねえ。つまりは、ヒトがそもそも持つ(という言い方をしてしまうと哲学的思考にはならないのでしょうが)身体感覚といったものが、見え方・感じ方には影響しているように思ったわけでして。では、なぜそうなるのか?は、やはり本書に…と、これではやはりぶん投げっぱなしですかね(笑)。