先月のEテレ『100分de名著』を見終えてから、あれこれと思い巡らしに浸っておりまして。取り上げられていたのはデュルケームの『社会分業論』でありました。
話を聞きながら「そうだよなあ…」と思うところもある一方で、取り分け思い巡らしの素になったのは第3回でしたかね、同番組HPの紹介では、こんなふうにある部分でして。
近代化に伴い個人は相互依存の網の目に参入。「社会的分業」によって人々は結びつけられるのだ。デュルケームはそれを「有機的連帯」と呼び、一つの理想状態として提示。だが、現実には、そう簡単にうまくいかない。適切な規制がないことや時代にそぐわない規制が邪魔することで、経済恐慌や労使対立、労働者の活力低下などさまざまな問題が引き起こされる。
例えばレストランの経営に際して、その商売は食事を作る人、客応対をする人、経理や事務に携わる人、食材を納入する人、客として食事をする人などなどが、それぞれの役割を「分業」して初めて成り立つとはいわでもがな。分業の部分部分を担う人たちが相互に連帯することで商売をうまく回していけるのですな。
さりながら、それぞれを分業する人たちが全く対等な関係、つまりはお友達共同体のような形で商売、経営が進むかといえば、そこには必ずと言っていいほど、身分の上下関係が出てきてしまうのではなかろうかと。レストランの例でいえば、シェフであるのか、経理や事務を担う人であるのか、そういう人がオーナーとなっていたり、支配人になったりして。
デュルケーム自身、有機的連帯の阻害要因のひとつとして労使対立を挙げているわけですが、雇う側、雇われる側のように、こなしている仕事そのものとは必ずしも関係の無いところで、偉い、偉くないといった身分の上下って「いったい、どういうこと?」と(ここからデュルケームとは離れていきますが)思いをぐるぐるさせることになっていったという。
仕事の関係で、偉い人と目されるのは往々にして「責任が重い」(だから報酬も多い)と見られるわけで、なるほど大きな決断を迫られる場合があって、その結果はその人が引き受けるということなのでしょうが、ではそういう立場に無い人たち(いわゆる普通の勤め人とか)には何の責任も無いのかといえば、そんなことはないはずですよねえ。それぞれの立場で責任を持って仕事をしておりましょうし。
確かに「厳しい経営判断」みたいな局面に比べて、普通の勤め人の責任は重くないと見えるかもですが、そういう普通の勤め人がそれぞれの責任を果たす仕事をしなければ、経営判断もへったくれもないことにはなりませんでしょうか。指揮命令系統みたいなところで、指示をする人、指示を受ける人というのはあったとしても、それが役割であるというだけ、あたかも人間としての価値の軽重まで含めて考えてしまうようなところがあるのは、「なんでなのかいね…」と感じたりするのでありますよ。
そして、こうしたことは何も、会社組織などの中だけにあるのではないですなあ。世の中でさまざまに偉い(と目される)人というか、職業があったりもする。例えば政治家ですとかね。でも、なんだって政治家が偉いと思われるのかは、持ち上げる人がいるからでしょうか。持ち上げておくとこちら側に都合のいいことを実現してもらえるからであって、(実は人間として偉くもなんともなくとも)本人までが偉いつもりになってしまう…こととか。
これって、いわば人気商売みたいなものであって、誰も見向きをしなくなったならば、自ずとその役割(職業)について回っている「偉さ加減」が目減りすることになるのでしょう。でも、そうはならない。その点で考えても、世に「政治家に反省を促す」みたいなことがよくありますですが、結局のところはそういう人を選んでしまう側の問題なのでしょうなあ。太平洋の向こう側であの大統領がやりたい放題になっているのも、それを選んでしまう人たちがたくさんいたからだろうと、そんな例を見せつけられますと、つくづくと…。
ヒトという生物が進化(適応)した結果として、数々の知恵を身に着けていったわけですが、何をどう評価するという価値観も知恵の積み重ねの結果としてあるものながら、評価のものさしに狂いはないかどうか、今さらながらに考えてみた方がいいのではなかろうかと思ったりもしたものなのでありました。ずいぶん、デュルケームの話からは逸れてしまいましたけれど。