多賀城。神亀元年(724年)創建と伝わるところから、2024年で創建1300年を迎えたことで、東北歴史博物館では特別展『多賀城1300年』が開催されたのですな(会期は2024年12月15日で終了)。宮城県へと11月末頃に出かけたのは、この展示を眺めに東北歴史博物館に立ち寄ることも、大きな関心事のひとつでありましたよ。
ということで、あっちに寄り、こっちに寄りした結果たどり着いた博物館は裏道からアプローチしたものですから、一応正面にも回り込んでみたような次第です。
県立博物館とあって多賀城のことはもとより東北地方の歴史・文化を広く紹介する趣旨ですけれど、取り敢えずは何はともあれ、特別展へと。入るとすぐに律令時代の官人(の衣装)に出迎えられて。
衣服の色に応じて官位が決まっていたということで、真ん中の「深緋(ふかあけ)」は四位、右側の「浅緋(あさあけ)」は五位、左側の「深緑」は六位の役人の正装であると。多賀城における官職で言えば、それぞれ陸奥出羽按察使、陸奥守、陸奥介に相当するのだそうな。
ところで、すでに多賀城市埋蔵文化財調査センター展示室でも見ましたように、多賀城創建に先立つ陸奥国の抑え(郡山遺跡)があったわけですが、蝦夷(えみし)対策として官人や軍隊を置くにとどまらず、律令国家の確固たる支配地とすべく移住を行ったということで。
東北地方への支配拡大のため、律令国家は坂東を中心とする地域の人々を、土地の開墾と軍事力の確保を目的として東北地方へ移住させた。その存在は文字資料だけでなく、陸奥国周辺のものとは形や製作技法が異なる土器、カマドに特徴のある住居の存在などからも明らかになっている。
ということで、中央では支配を強める方向にあったものの、蝦夷の側が黙ってこれを受け入れるはずもありませんですねえ。
720年、陸奥国では律令国家の支配に抵抗するエミシにより按察使が殺害される事件が発生した。これにより国内は混乱し、防御性や物資流通も意識した、多賀城への国府移転が進められる。エミシの抵抗は出羽国や石背国、石城国分離後の北方強化政策に端を発しており、国府移転はエミシ支配の拠点として威厳をあらためて示すねらいも含まれていた。
威厳を示すという点では「創建期の多賀城は、政庁の主要な建物が都にならった装飾瓦で飾られ」ていたとか。「どうだ、立派なもんだろう」とエミシに見せつけたかったのでしょうね。
ただ、ここに引いてきた瓦はすべて平城宮跡から出土したものでして、展示構成そのものが多賀城創建に至る部分、中央政治の流れをたどるところが多かったような。個人的関心はむしろ蝦夷との関係の方にありましたので、展示の第2章「多賀城とエミシ」以降に期待をかけつつ、先の展示室に歩を進めるのでありましたよ。