さてと、宮城県慶長使節船ミュージアム(サンファン館)にあって、ようやっと目玉の展示物を間近で見ることに相成りました。慶長遣欧使節の一行を乗せて、太平洋の荒波の中を往復したサン・ファン・バウティスタ号の復元船でありますよ。ただ、かつては原寸大で再現されていたものが、紆余曲折を経て1/4スケールになってしまっているのが何とも残念なところではありますが…。
ミュージアムは海から直接せり上がる斜面の上にありますので、復元船の置かれたところまでは結構な下りとなる…ところではありますが、昨今の施設にはバリアフリー感覚が求められてもおりましょう、長い長いエスカレータで昇り降りができるようになっておりました。
この長いエスカレータがたどり着いた踊り場で右方向へもうひとつ、エスカレータを下ることになるのですけれど、そちらのエスカレータの途中の表示に「ん?」と。
東日本大震災の津波はおよそ8mの高さで襲ってきたのであると。屋外展示のあるところはちょっとした入り江になってますから、まともに被ることになってしまったでしょうなあ…。
ところでエスカレータを下りきりますと、復元船を屋外展示する広場が馬蹄形というのか、刺股の先っぽ形といいますか、そんな形状になっておりまして、東側廻廊は造船過程などを紹介する屋内展示スペース、西側廻廊にはかつて原寸大復元船に艤装されていた部品などが置かれるオープンエアのスペースということで。まずは、エスカレータ降り口から直接つながる東側の展示スペースから見て行くことに。
「伊達の黒船」とはもちろんサン・ファン・バウティスタ号のこと。「ガレオン船」という種類の木造式帆船の造船には当然にしてたくさんの木材が必要になるわけで、これを仙台領内から集めることから始まったのですな。
ちなみに日本で最初に造られたガレオン船は、1607年に徳川家康の命でウィリアム・アダムス(三浦按針)が手掛けたサン・ブエナ・ベントゥーラ号であるということですが、この船が120トンだったことに対して、サン・ファン・バウティスタ号の方は500トン。日本人の手だけでは、とてもとても造れなかったことでありましょう。
何せ、ガレオン船の建造は船の背骨ともいうべき竜骨を据えるところから始まるわけですが、この発想自体が和船造りには無かったようですから。なんとかかんとか船体をくみ上げると、やがて艤装を整えて出航の準備と続きます。船に積み込まれたものは実にさまざま。船に蓄える食糧狙いでネズミが出るからと船内でネコを飼うのは必須だったようですし、また航海中には海賊に出くわす可能性もあることから、当然のように大砲も積み込まれたのでありますよ。
ということで、晴れて完成したサン・ファン・バウティスタ号。今でもおそらくは帆船模型を趣味とする方などもおいでとは思いますが、なんでしょう、機能美とでもいいましょうか、優美な姿を湛えておるではありませんか。その実、大砲積んでいたりもするのですが…。
復元船をようやっと間近に…と言っておきながら東側廻廊にある展示の話に終始してしまいましたが、次回には復元船の全貌を明らかにする(とはなんとも大仰ながら)ことにいたしましょうね。