東京オペラシティのヴィジュアルオルガンコンサートを聴きに、初台まで(多摩から)出かけていったついでで、渋谷に足を向けてみたのですなあ。100年に一度とかいう触れ込みの大規模再開発が駅周辺では相変わらず続いておりまして、たまにしか行かないものにとってはどんどん訳の分からない街になってきておるような。『解体キングダム』だかなんだか忘れましたですが、NHKの何かの番組の中で、建築関係者は「便利になる」ということを強調していたものの、全くもってそうは思えませんなあ。おそらく「便利」と思う考え方が違うのでしょう。「昭和」な時代に、世田谷の伯母さんのうちへ遊びにいくのに玉電に乗り換えていた頃の渋谷が懐かしいですなあ…(笑)。
と、日頃は渋谷に縁のない者の愚痴こぼしから始めてしまいましたけれど、ともあれ京王井の頭線のある西口方面からJRを跨ぎ越して東口方面に向かうだけで右往左往しつつ、目的地は渋谷という喧騒の地のすぐ裏に「こんな静かな住宅地(おそらく高級!)があるのだあね」と思えるあたり、國學院大學博物館でありましたよ。何度か出向いている施設ながら、今回は「文永の役750年 Part2 絵詞に探るモンゴル襲来―『蒙古襲来絵詞』の世界―」という特別展を覗いてみようというわけでして。
「文永の役750年 Part2」とありまして、いわゆる「元寇」として知られる二度の戦役のうちの最初にあたる文永の役が起こってから、今年2024年は750年目にあたるのだとか。で、こちらの博物館では「文永の役750年 Part1 海底に眠るモンゴル襲来―水中考古学の世界―」に続く特別展第2弾が今回の展示であると。第1弾の水中考古学、つまりは玄界灘に潜ってみれば…ということでしょうけれど、700年あまりも前の戦いの遺物が今も海底に眠っているそうな。おそらくは第1弾の展示物の継続展示かと思われますが、例えばかようなものも見つかったりして。
いずれもぼんやりしていたら、ただただ海底にあるものとしか見えない、ともすると「たこつぼ?」くらいに見てしまうところでもありましょうか。さりながら、上は元軍兵士の鉄兜であり、下はいわゆる「てつはう」であると。いずれも、今回展のメイン展示物である『蒙古襲来絵詞』の中に見られるものですな。
「てつはう」というのは要するに爆弾の類いでしょうけれど、「九州国立博物館のX線CTスキャン画像によると、小さな鉄片や陶器片、木片が詰められており、火薬で爆発させると、かなり殺傷力の高い兵器であることが明らかなにな」ったと展示解説に。これも、水中考古学の賜物と言えましょうね。
『蒙古襲来絵詞』の中では、取り分け有名な場面として教科書でも見かけたように思うこの場面こそ、「てつはう」炸裂の瞬間ですな。ことほどかほどに殺傷力が高いとは知っておれば、竹崎季長の馬の驚きようもより理解できようというものです。
蛇足ながら肥後の御家人であった竹崎季長は元寇の際に自らの軍功をアピールせんがためにこの絵巻を作った張本人と言われておりまして、ともするとご褒美のおねだりか?てなふうにも思うものの、鎌倉時代の御恩と奉公の関係からすると、領地を与えられる(御恩)から軍働きを惜しまない(奉公)わけで、逆に軍働きを果たしたからには領地をもらわなくては関係が保てないところでもあったのでしょうなあ。
ただ、国内の領地争いには勝敗の結果、負け組の土地を取り上げて、勝ち組に分け与えればよいことになりますが、相手が海の向こうからやってきただけに、戦勲に応じた褒賞を与えるには、さぞ鎌倉幕府にも苦労があったことではなかろうかと。
ちなみに、季長は『絵詞』でもって戦功アピールに努めたわけですが、元寇という未曽有の事態にあたり「自分たちは役目を果たしたんですよ、役に立ったのですよ」とアピールしていたのは武士だけではないようで。なんとまあ、それは寺社仏閣であったと。
なんとなれば、さまざまな国難への対処方法として昔々から加持祈祷が行われてきたわけで、元寇の時にも数多の寺社仏閣で元軍退散の加持祈祷が行われたのであるということなのですな。結果として、元寇はよく知られるように「神風が吹いて元軍を打ち払った」と伝わっている。これが加持祈祷の成果でなくしてなんであろうと言うのが寺社仏閣の言い分のようで。取り分け、軍神である八幡神を祀る石清水八幡宮あたりではその功績をアピールしていたようで、そのことを窺わせる史料が展示されておりましたよ。
ところで肝心の『蒙古襲来絵詞』ですけれど、原本は国宝として皇居三の丸尚蔵館が所蔵しており今回展では見られない。ですが、約40例もあるという模写本のうちの2点’が展示されておりました。時期の違いもありましょうけれど、並べて展示されていた2点を見比べてみますと、元軍兵士の同じ人物が顔面真っ赤であったり真っ白であったりというような、結構はっきりした相違が分かるのですなあ。模写本の相違などを研究しておられる方もおいでなのでしょう、模写した年代の早い遅いなどなど、いろいろと解説されておりました。
研究と言う点では水中考古学に戻ってしまいますが、先に見た鉄兜や「てつはう」などよりも遥かに大きな遺物として元軍の沈船が発見されており、それを船舶史研究者と共に復元することも行われたようで。こちらがその復元模型でありますよ。
13世紀という古い時代の船ですけれど、見るからに頑丈そうではありませんか。未だ大砲が艦載される以前ですので、その当時としてはそれこそ不沈艦と見えたのではないでしょうかね。『蒙古襲来絵詞』には船舶を描いた部分もありますが、日本側の船はあたかも艀のようだったりしますし。そんな巨艦を相手にして途方に暮れるところもあったと想像するだけに、これを神風が吹き払ってくれたとなると、日本には神風が付いているてな思いが、後々まで(それこそ20世紀の前半までも)受け継がれることにもなってしまったのですかねえ…。ま、都合よく利用してしまったとは言えましょうけれど、そんな使われようが繰り返されないことを願っておりますよ(どうにもきな臭い、というよりわざわざきな臭くしようとしている雰囲気が日増しになっているようであるだけに)。