伊達政宗の命を受けて、1613年10月に仙台藩領月浦を出航した慶長遣欧使節は、太平洋を横断し、メキシコを陸路で越えて、さらに大西洋も渡り切り、いよいよスペインに到着と相成りました。上陸したのは、グアダルキビール川を遡上した河川港のあるセビリアの地でして、時に1614年10月とはまさに一年がかりでヨーロッパにたどり着いたことになりますですねえ。
時間がかかるのは移動そのものにもよりますが、各地で歓待行事などがあったりして、どんどん月日が過ぎていったのでもありましょう。ましてセビリアは使節団の正使たる宣教師ルイス・ソテロのふるさととあって、市民こぞって大歓迎、「馬車から馬に乗りかえた彼ら(使節団一行)は、市長や警察長官に案内されながら宿舎のセビリア城に入」ったのだとか。馬上にあるソテロは、凱旋行進の出迎えを受けるような、晴れがましい気分だったのではありませんかね、この時は。
翌11月にはスペイン国王謁見を目して首都マドリードへと出発。やはり、大歓迎で迎えられるのではありましたが、大国スペインの情報網は伊達ではないのでしょう、「徳川幕府によるキリスト教の禁止を知ったスペイン政府では、貿易交渉に反対する意見が強まりつつあ」ったとは、ソテロや支倉がどれほど認識していたのでしょうなあ。
舞台裏に逆風が吹き始めたからか、時のスペイン国王フェリペ3世との謁見はずいぶん長く待たされることに。ようよう許されたのは1615年1月30日であったということでありますよ。展示解説では謁見時のようすをこのように。
支倉は政宗の親書を手渡し、メキシコ貿易の実現と仙台領への宣教師の派遣を求めます。国王は、日本でのキリスト教禁止を理由に回答を避けましたが、使節のローマ訪問は許可しました。
どこでも歓待を受けて前途洋々とも見えた使節の旅は、ここで国王から即座の快諾を得られなかったことを危ぶむ向きもあったかと。それだけに少々パフォーマンスめく出来事ではありますが、国王も同席するマドリードの教会で支倉常長は晴れて?洗礼を受け、「ドン・フィリッポ・フランシスコ・フェシェクラ・ロクエンモン」となったそうな。ソテロの助言によって、メキシコでは洗礼を受けていなかった支倉、ここでというのは既定路線であるにもせよ、使節の思いを国王に見せつけるものにはなったことでありましょう。
使節の目的には宣教師の派遣もありますから、これを願い出るにはローマ教皇に会わなければならない。ローマで事が成れば、交易に関して前向きな返答をしなかったスペイン国王を動かすことができるかもという期待を持って、一行はローマに向かったことでしょう。バルセロナからは地中海を海路で持ってイタリア半島を目指したようですな。途中、サン・トロペとジェノヴァに寄港した後、1615年10月15日にローマ到着。出航から2年が過ぎ去っていたことになりますなあ。
ちなみに、今ではコート・ダジュールのリゾートとして知られるサン・トロペでは、寄港して二日ほど滞在したときのようすを領主が書き残しているようでして、目を止めたことが異文化遭遇のエピソードとして面白いですなあ。展示解説から引いてみましょう。
サン・トロペ領主の記録によると、彼らは2本の刀を腰に差していました。刀の切れ味は、「紙を置いて息を吹きかける切れる」と驚きの事があがるほどでした。
(食事のとき)料理は、玉ネギ入りのキャベツのポタージュなどが出されました。記録には「2本の棒を使って上手に食べる」とあり、日本から持っていった箸で食べていたことがわかります。
使節団の出航時、つまり1613年はもはや徳川の時代となってはいたわけですが、支倉らが海外にいる間に大坂の陣が起こったりする頃合い。それだけに、未だ侍には戦国の気風が拭い去られてはおらなかったであろうと。刀も即戦可能な状態が常に保たれていたのでしょうなあ。後の、天下泰平の風に当たった官僚武士とは違っておったことが窺えますですね。
ともあれ、ローマに到着した慶長遣欧使節はやはりここでも大歓待を受けることに。歓迎の気持ちのひとつとして、ボルゲーゼ枢機卿は画家アルキータ・リッチに支倉の肖像画を描かせたということでして。
全身立像で描かれた支倉の右側には、画中画として月浦を出帆するサン・ファン・バウティスタ号が描き込まれているとはなかなかに心憎い演出ではありませんか。原画はローマのボルゲーゼ宮にあるのだそうです。
ということでローマに到着した慶長遣欧使節の一行はローマ教皇に謁見し…と、話は続くわけですが、取り敢えず折り返し点まで到達したところで、本日はこれにて。ローマ滞在から帰路へというお話はこの次ということにいたしましょうかね。