年末の恒例として、「第九」の演奏会を聴いてきたのでありまして。ですが、聴きに行きたくて聴いたわけではなしに、読響の年間プログラムで毎年12月は「第九」と決め打ちされているから…云々と言いますと、またまた例によって些かネガティブな方向へと入り込んでしまいますが…。
日本では年末になりますと当たり前のようにオケの演奏会で「第九」のオンパレードとなりますけれど、個人的な「年末だからといって第九?」的な思いとは別に、それこそ年初にはどこかしらの神社仏閣に初詣に出向くのと同じような当たり前感で演奏会に出向く方々もおいでなのでしょうなあ。読響だけとっても、東京公演は軒並み完売てなことですしね。
感覚的には、今年一年の煤払い、厄落としを「第九」に託しているようなところもあるんでしょうか。音楽の効能、効用はさまざまにあっていいわけですが、それにしても年末一点張りの日本のようすをベートーヴェンが見たならば、苦虫かみつぶしたようになるのではとも(笑)。
と、タイトルに「悩ましい…」と記したのはそうしたあたりのことではありませんで、「第九」=「歓喜の歌」と想像されるほどに知られた第4楽章の旋律が流れると…というあたりのことでして。
この旋律が夙に知られるのは(音楽の教科書も様変わりして今はどうなっているのか分かりませんけれど)たぶん小学校の音楽で歌うことの刷り込み効果ではなかろうかと。しかも、歌詞は♪晴れたる青空 ただよう雲よ 小鳥は歌えり 林に森に…というものでしたなあ。
ご存知のようにベートーヴェン原曲の第4楽章では、バリトンに引っ張られて合唱が入ってくる以前、オケが歌無しの旋律をひと通り奏でますけれど、これが出てくると即座に頭の中には「晴れたる青空…」が浮かんできてしまう。これが実に悩ましいわけです。小学校の教材として児童にも受け止めやすい歌詞を模索した結果として生み出されたものかもしれませんが、いい天気のときにピクニックに来て楽しいね!という歌にしか思えないのでして。
明治期以降、日本における洋楽受容の過程では、例えば後に文部省唱歌と言われるようになる数々の歌には外国のメロディーに(原曲とは全く異なる)新たな歌詞が付されて歌い継がれてきているものがたくさんありますですね。年末や年越しがらみで言えば『蛍の光』なんかも正しくそうした類でありましょう。さりながら、日本の『蛍の光』がおよそスコットランドのオリジナルな歌詞の内容を反映していないではないか!と、ことさらにあげつらう向きはおそらく無いでしょう。個人的にも同様です。
にも関わらず、「第九」の方になるともやもやしてしまうのはどうしたことか。これは旋律を部分的にもってきて、子どもたちの歌う『よろこびの歌』として聞くのではなくして、ベートーヴェン作曲の原曲、交響曲第九番ニ短調作品125という全体を意識することにもよるのであろうかと。
一曲の音楽を聴くときにに、ことさら特別な思いを持ち込むことなしでいることもできるわけですが、たまたまにもせよ、『〈第九〉誕生 1824年のヨーロッパ』などの第九関連本を読んだりしてあれこれ考える中、 どうしても「ピクニック、楽しいね」ではないだろうという思いが噴出してしまうのは致し方なしなのでありますよ。
とまあ、そんな面ばかりでこぼしていては、当日の演奏者たちには申し訳のないところかと。フランチェスコ・アンジェリコが振った読響が正攻法でダイナミックな演奏を繰り広げたことには、「ああ、また一年経ったなあ」と感慨深く思ったものなのでありました。