大学時代の友人が所属するアマチュア合唱団の演奏会にお誘いをいただきまして。もっともお誘いは毎年のことながら、永年不義理を続けてしまっておりましたよ。何せ千葉県の津田沼あたりを本拠にしているだけに、演奏会はその界隈で開催されることが多く、多摩の方面からはなかなか中途半端に遠いというか。ただ、今年に限っては江戸川を越えて東京・江戸川区のホールまで歩み寄ってくれましたので、なんとかかんとか出かけた次第。昔むかしには自分も吹奏楽のステージに上がったことがあるホールなだけに、これまた懐かしさも手伝ってということも、これありでして。
基本的に合唱にはあまり縁がありませんで、高校の時分には全校を挙げて「合唱祭」なるイベントが行われたりして、クラス単位で競い合うという行事があったにはありましたなあ。さりながら、1年のときも2年のときも(3年は一応受験前ということで無しだったような)合唱には参加しておらない。なんとなれば、指揮者にされてしまっていたのでありますよ。ま、吹奏楽部だったから…ということなんでしょうけどね。
当時としてはそれなりに指揮棒を振ることにばかり一意専心して、本来の指揮の役割が十分に発揮できておらなかったなあと気付くようになったのは後々のことですな。結果としてクラスが比較的好成績だったもので、おそらくは役割は果たしていたのだろうと思っていたのですけれど。
ですが、今回のように合唱を聴く機会に接するに及んで、しかもプロではないので突っ込みどころがあると言っては失礼になりましょうけれど、曲作り(要するに演奏のありよう)に際して「ああもできよう、こうもできよう」てなことが浮かんでくるというようなことを、かつてはおよそやっておらなかったと思うようになったわけで。
それこそ、テンポを保持して振ることに精一杯、曲の解釈云々に目配り(耳配り?)している余裕などない状態であった高校の時分、同じことが吹奏楽をやっていても言えるわけでして、楽譜通りに演奏するのに手いっぱい(それも時に難しくて追いつかなかったり)であったというのは、それ相応の音楽性でしかなかったということになりましょう。指揮でも演奏でも、高校はおろかそれ以前であっても、技術を確保した上で曲作り、曲解釈に音楽性の発露を示す人たちっているわけですから。
それでも、歳を重ねてようやっと「ああもできよう、こうもできよう」ということに思い至るようになったということなのかもしれませんです。こうしたことって、何も音楽ばかりのことではなくして、物事を成すにあたっての成熟性が早いのか遅いのかには、個人差があるということで。天賦の才のような場合もあれば、努力の結果というとももありましょうけれどね。
とまあ、そんな思い出混じりのことを考えながら聴いていた演奏会ですけれど、ここの合唱団の演奏会の特徴は必ずオーケストラを伴う大曲がメインに置かれているということではなかろうかと。アマチュア合唱団としては、年に一度にせよ演奏会ごとにオーケストラを連れてくるのはたやすいことではないでしょうに。しかも、伴うオケもアマチュアながらかなりしっかりとした音作りがなされているようなのも大したものであるなと。
でもって、今回はオケ伴付き合唱曲のメインになっていたのがブルックナーの『テ・デウム』でありましたよ。何度聴いてもすっと入って来ない曲のひとつでしたけれど、思いがけずも「こういう曲だったのであるか…」と今さらながら。こうした気付きはめぐり合わせといいますか、突然降ってくるようなものでありましょうけれど、先に触れた思い出混じりの思い巡らしの中で触れた気付き(の振り返り)と共にもうひとつ、ブルックナー『テ・デウム』の曲を聴くに際しての気付きもまた。誘ってくれた友人に感謝せねばなりませんなあ。