ちょいと前に、大阪の藤田美術館を訪ねて『源氏物語図屏風』の展示を見た折のことに触れて「そもそも『源氏物語』の話もよく知らない者にはなかなかに敷居の高いところで…」云々と申しましたですが、『源氏物語』のことって一般によく知られているものなんでしょうか…。
思い返してみれば、古文の授業で取り上げられていたことは記憶に残っておりまして、おそらくは暗誦させられたものと思いますが、有名な冒頭部である「いづれの御時にか、女御、更衣あまた候ひ給ひける中に、いとやむごとなき際にはあらぬが、すぐれて時めき給ふありけり」だけは今も覚えている。ただ、どうしたことか記憶には、「いとやむごとなき際にはあらぬが」の部分を「いとやむごとなき際にはあらねど」というふうに刷り込まれてしまっていて、改めてこの文に触れると心地悪さが生じたりもするという。記憶違いなだけなのでしょうけれどねえ。
ともあれ『源氏』の記憶は全くもってそれだけで、最近になって「能」などにも触れるようになりますと、六条御息所が生霊になって…てな、極めて部分的なところを知るようになってますが、全体のストーリーさえつかまえるには至っておらないのですな。たまたまにもせよ、2024年の大河ドラマが『光る君へ』であるところから紫式部ブーム、源氏物語ブームが世の中には生じていますので、とっかかりとしてはそのタイミングだったかもながら、『光る君へ』は見ていないまま、おそらく話は終盤に向かっていることでありましょう、時期的に。
とまあ、そんなことが頭の片隅に居残っておりました折も折、近所の図書館で『源氏物語入門』という岩波ジュニア新書の一冊が目に止まったのですな。入門書というばかりかジュニア向けで、新書という手軽な一冊となれば、これはもう「手に取って見よ」という天啓でもあるかと思ったものでありますよ。
で、これを読み通すことによって、『源氏物語』の話の大筋はつかまえることができましたなあ。物語としては、さまざまなエピソードが巻を跨いで展開していたりもするようですが、巻末に年表(「年立(としだて)」というだそうですな)の形で光源氏の生涯がまとめられておりましたので、流れとしては理解したつもりです(光源氏が空蝉のところへ忍んでいったのは17歳でしたか…)。
ということで大づかみにもせよ、全体のストーリーを知ってみれば単なる色恋ばなしではなかった…とは、全くもって今さらながら。ではあっても、個人的にはやはりどうも流れにのれない話であるなあとも。確かに1000年に及んで読み継がれ、語り継がれてきただけのものがあるにもせよ、です。
そんなところで、またふと思い出したのが先月9月に放送されていたEテレ『100分de名著』なのですな。取り上げられたのは「ウェイリー版・源氏物語」、つまり『源氏物語』をウェイリーが英訳した版と、その英訳版をまた和訳した版とを扱っているのを、録画してそのままになっていましたが、この際ですので一気見したという次第です。
でもって、ことここに至ってようやっと、「ああ、『源氏物語』とはそういうものだったのだあね」と腑に落ちるといいますか、すっきりするといいますか、そういうことになろうとは思いもよらず。ウェイリーは『源氏』のことを「クロニクルであり、フェアリーテイルである」てなふうに考えたらしいのでありますよ。これが、個人的には「エウレカ!」であったわけで。
クロニクル、即ち宮中年代記というのは、単に色恋ばなしではなかったという側面を表してもいますけれど、もうひとつ、これがフェアリーテイル、おとぎ話であるという点、それがくくっと入ってきましたなあ。『源氏物語』がいわゆる実録ものではない、創作、作り話であることは間違いないところながら、それにしても平安期の世相(それが宮中や貴族世界のものであっても)を反映しているであろうことに生々しさを感じてもいたのですよね。それを「おとぎ話なのですよ」と言われれば、感じていた敷居がかなり下がってくるような。
おとぎ話にはよく神性をまとった人物が登場するわけで、古来の神話からつながる物語性を見ることもできましょうけれど、主人公の光源氏はそんなふうな中で理解すればよいのであるなと、ようやっと。番組の中では、光源氏が苦難を乗り越えて何らかのアイテムを手に入れることで神性を高めていくといったあたりをRPGにも擬えて紹介されてましたが、要するに神ではないが神のような存在の主人公の成長物語だったりもするのでしたか。
そんなふうに捉えますと、ギリシア神話のゼウスを例として、神様はなかなかに多情ですものねえ。キリスト教の唯一神ではありませんので、そのことを今さらとやかく言うこともないわけで。
てな曲折でもって、ようやっと『源氏物語』理解が少々進んだような。ただし、そうであっても読んでみよう(現代語訳であったにしても)とは思わないのですけれどね…。