ちょいと前に新聞で「行徳富士」という言葉を見かけて「ん?!」と。行徳は千葉県市川市の海沿いの町で、1969年に営団地下鉄(当時)東西線が都心と西船橋を結んだ際、経路上にある行徳駅は、その頃の子供にとっては少々足を延ばしてハゼ釣りに行くところというのがもっぱらの認識でしたなあ。駅の周辺は荒涼として何もない空き地の広がりでしかなかったという記憶ですけれど、東京湾に面したあたりを埋め立てて、未だはっきりと用途が決まっていなかったのかもしれません。
そんな記憶があるだけに山などあるはずもなく、「行徳富士とは?」と思ったわけでして、「もしかすると各地にある富士塚でもあるか?」とも。さりながら、その実体はどうやら都心の開発で出た残土が長い年月をかけて堆く積もり、高さ37.5mもの山になったものであるそうな。ちなみに、東京23区内の自然地形では、標高25.7mの愛宕山の頂上が最高所と言いますから、それよりも高い人口の山が造られていたのですなあ。もちろん、市川市内では最高所になるわけで、俗称「行徳富士」と言われているのであるとか。
幸いにして、しばらく前に静岡県熱海市の伊豆山で起こった土砂崩れのような事態は生じていないようですけれど、廃棄物業者としても確かに土地は保有しているにせよ、土砂をかほどに積み上げておいていいということもあるまいに…と思うところでして。ただ、都心で持って行き場のない土砂を地方に持っていって放置するというのは、これもまた中央のツケが地方に回るという構図なのであろうなあと。
で、違う話のようでいて根っこは同じであるなと思われたのが、原発ですなあ。福島の原発は東電が作ったもので、リスクを遠くに置いておきながら、発電の成果は東京で享受しているのですから。話を大きくしてしまうと、沖縄に米軍基地を押し付けているのもやはり同根であるような。
とまれ、そんなことに思い至ったのは折しも『市民エネルギーと地域主権 新潟「おらって」10年の挑戦』なる一冊を読んでいたところであったからなのですな。福島同様に東電の柏崎刈羽原子力発電所のある新潟で、(もとよりここの電力も東京に送電されるのでしょうけれど)地産地消のエネルギー自治を目指す団体の活動を振り返る内容でして。
といって手にとった当初は、いわゆる再生可能エネルギーによる発電に取り組む話であるかと思っておりまして、確かに活動としてはそういうことでもあるわけですが、改めて「市民エネルギーと地域主権」というタイトルを顧みれば、要するに政治の話というになっていくのでありましたよ。
産業革命以降(とはざっくりすぎて、適切かどうかですが)、物事にスケールメリットの考え方が浸透して、(今はあまり聞かなくなったものの)「大きいことはいいことだ」てなスローガンが信奉されてもきたような。小さな単位ではできないことが大きな単位になればできるようになる。小さな単位で同じようなことをやっている重複を大きな単位では無くすことができる。そんな考えから、全国の市町村でも「平成の大合併」が行われたりしたのでしたなあ。
今流行りの言葉に「コスパ」「タイパ」というのがありますですが、これも結局は「大きさ」という部分とは異なるにもせよ、要するに効率性の追求なのでありましょう。効率が良いはいい印象で、効率が悪いということにいい印象が無い。近頃になってようやっと、毒されてるなあ…と思い立ったものの、世の中に染み付いてしまってもいる意識ではなかろうかと。
物事の枠組みが大きくなりますと自分自身の関わりが見えにくくなってきて、あたかも部外者のように思えてしまったりする(原発という爆弾を遠くに置いておいて、電力だけは享受していることを意識しなくなる)のではないですかね。ですので、やはり「大きい」に対する「小さい」には全くメリットが無いとはならないのではないかと(反して、多少なりとも効率がよろしくないことがあるにせよ、です)。
毎日使う電力がすぐ目の前の原発から供給されているとしたら、あるいは近所の開発で出た残土がこれまたすぐ近所に堆く積みあがっていったとしたら、こういうことを(嫌でも)意識しなくてはならないでしょうね。
と、つらつら書いてきたところは必ずしも今回読んだ本の趣旨ではありませんですが、ここで掲げられている「地域主権」というのは、中央にまとめることでスケールメリットが出、コスパ、タイパがよくなっているという思い込みを自ら揺らがせてみる必要があるてなことになりましょうか。スケールメリットがありますよ、コスパ、タイパがいいですよということの裏側では、とかく中央の都合で割り食う形になる地方があって、それに目をつぶっていてはそのままの流れは変わらないわけで。
こうしたことを中央と同じに捉えられるであろう東京の者が言うのと、地方の方が言うのはニュアンス的に必ずしも同じでないかもしれませんが、こと東京という枠組みにおいてさえ、こんな連続講座が展開されていたりするのですものねえ。
予て、経済の面で資本主義は制度疲労を起こしているのではなかろうかと思っているところで、その資本主義経済ありきで動いている政治のありようもまた制度疲労を起こしているような。となれば、これまで当たり前のこと、変わりようのないことと思ってきたことにそろそろ「?」を向けてみないと、世の中住みにくくなるばかりになっていくのかもしれませんですねえ…。