大阪・枚方市で宿場町の名残をゆらゆら辿ってきたですが、締めくくりに訪ねたのはこちら、市立枚方宿鍵屋資料館でありました。

 

 

「江戸時代、淀川往来の船を待つことができる『船待ちの宿」を営んでいたという「鍵屋」、入口側にはかつての京街道に面して、解体復原工事が行われたという主屋が街道筋らしい佇まいを醸しておりますな。

 

 

奥には、昭和初期に建てられて、1997年までは料亭・料理旅館として営業が続けられていたという別棟がありまして、敷地の裏からはすぐに淀川堤、直接に船着き場に出られたそうでありますよ。今は、奥側の別棟が資料館として鍵屋の、そして枚方宿、淀川舟運の歴史を語り伝える史料が展示されておるということで。

〽鍵屋浦には碇が要らぬ 三味や太鼓で船止める

淀川通いの船頭たちが歌ったのでしょうか、『淀川三十石船唄』ではこんなふうに歌われていたくらい、鍵屋は「淀川筋でよく知られた場所」であったことが、入口脇の解説板に書かれてありましたが、早速に別棟の資料館へ入ってみるといたしましょう。

 

 

 

やおら古風な電話機が見えるのは、別棟が昭和初期に賑わいを見せた料亭なればこそでしょう。ちなみに右手に掛かった額装の地図は何と!吉田初三郎の手による「枚方市付近鳥観図」であると。一瞬、(失礼ながら)「こんなところまで描いているのであるか…」と思ったものの、初三郎の出世作が京阪沿線の地図であったことからすれば、さほど驚くに当たらないのかもです。

 

 

と、近代の賑わいには初三郎の鳥観図がひと役買ったかもしれせんですが、淀川舟運が活況を呈していた時分の賑わいはまた格別だったではなかろうかと。文政九年(1826年)に江戸参府に際して枚方宿に立ち寄ったシーボルトは、こんなことを書き残しておるそうな。

枚方は大坂の人たちが遊楽地としてたいへんよく訪ねる大きな村で、そのためどの通りにも売春婦がいっぱいいる。…われわれはここで昼食をとり、それから伏見への旅を続けた。枚方の環境は非常に美しく、淀川の流域は私に祖国のマイン河の谷を思い出せるところが多い。

京街道を往来する人の流れ、淀川三十石船に乗り降りする人の流れ、こうした旅の途次に枚方を通り過ぎる人々で賑わったこともありましょうけれど、シーボルトの書き残したところから想像するに、大都市・大坂の遊び人を懐深く?引き受ける歓楽街ともなっていたような。そうしたあたり、かなり健全化されて「ひらかたバーク」の存在に繋がっているするのかもしれませんですねえ(個人の創造です)。

 

ところで、陸上交通と水上交通、この二つの流れでもって賑わう宿場というのもそうそう無いだろうとは思うものの、まあ、うまい話ばかりではないわけでして、そも枚方宿は「片宿」と呼ばれるほどに京への上り下りに通る人や荷物の数に偏りがあったということなのですな。つまり、京へ上る場合にはもっぱら陸路が使われ、宿場に客が立ち寄るものの、大坂方面へ向かう場合は三十石船に乗って、ともすると枚方を素通りするというわけで。

 

船賃でいえば、下りは流れにまかせて行くので速い分、労力も少なめなのか、低価格ですが、川を遡行してくるには船に縄をつないで川端の道を人足たちが引っ張り上げるとなると、下り運賃の2倍設定だそうで、こちらは陸上交通路に頼るといった具合のようで。

 

そんな具合ですから、街道筋に軒を連ねて客の立ち寄るのをまってばかりもいられないと考えたか、(あるいは単に商魂たくましかっただけか?)、淀川を行き交う三十石船に漕ぎ寄せて船客相手に商売する輩が登場したのであると。これを称して「くらわんか舟」というそうなのですが、そのお話はこの次に鍵屋の展示を見る続きで触れてまいろうかと思っておりますよ。