振れば土砂降り、晴れれば酷暑、これでほんとに梅雨かしらむ…てな戯言でもってこぼしたくなるようなヘンテコな気候、天候ではなかろうかと。ま、今年に限った話ではありませんけどね。
ともあれ、じょぼじょぼの雨降りの中、久しぶりに東京オペラシティのヴィジュアル・オルガンコンサートを聴いてきたのでありますよ(最近はサントリーホールのオルガンの方を聴いておりましたのでね)。登場したオルガン奏者の石川=マンジョル優歌さんによれば、ご本人はスーパー晴女なのであるということで、この日はレアな土砂降り記念日のようなものであると。
そんなふうに笑いを誘いつつ始まった今回の演奏会は「知られざるオルガン作品を集めて」というもの。ジョゼフ・カラーツ、ヨハネス・マティアス・ミシェル、ウイリアム・オルブライト、ヨーク・ボウエンと、知られていない作曲家の作品が並んでおりましたけれど、全体としてもまとまりよい、楽しめるコンサートになっていたような。
カラーツ(1838-1901)を除けば、他の作曲家は皆、その活動時期はどっぷり20世紀であろう人たちですので、ともすると晦渋な音楽が流れだすのであるか…と些か身構えたものの、いわゆる20世紀音楽の尖鋭さ、前衛さには近付かない、いわば聴きやすい音楽であったものですのでね。取り分けミシェルという、現在も活躍中である(たぶん)の「3つのジャズ前奏曲」は。「オルガンでジャズ?」と思うも、違和感はまるでなし。考えてみれば、さすがに大がかりなパイプオルガンを使ってではありませんけれど、ハモンドオルガンでジャズというのはすでにしてあるわけですしね。
というわけで、東京オペラシティコンサートホールを覆い尽くすオルガンの響きにしばし身をゆだねてきたわけですが、こうした身をゆだねんばかりの音に包まれるというのはコンサートホールならではなのであるなあとしみじみ感じたところでありまして。どんなに頑張っても、自宅にいながらにして…というのは無理だろうなあと。
そんなふうに思いましたのも、自宅で長年使ってきたCDプレーヤーがどうやらイカレてしまったようで、手持ちの(それなりにたくさんある)CDをこの後も聴こうと思うと、代替機が必要になるという事態に立ち至っておるからでして。
ただ、時代の趨勢は「もはやCDではなかろう」ともなってきていようかと。何しろCDは開発時の技術的な妥協として、ヒトの耳が聞きとれるであろう範囲を数値的に判断して、可聴域外の音(のデータ)をカットしていて、出たての頃からそれがネックとされてましたものね。そんなCDに対して、近頃は録音のデータをそのままにハイレゾで聴く流れが出てきているわけですから、もはやCDは退場宣告寸前なのかも。
現に、ちらほらとCDプレーヤーの現行機種に探りを入れてみますと、要するにかつてのCDラジカセ的なお手軽タイプのものか、あるいは超ハイエンド・オーディオの世界(何百万円もするものあり)のものであるか、ざっくり両極端にふれて、いわゆるその中間層としてそこそこのレベルでオーディオ・システムを気に掛けてきた者が手にしていた価格帯は選択肢が少なくなっておるようでありましたよ。
まあ、元よりオーディオ趣味が昂じて財産をつぎ込んで(ちなみに同様のことは、ともすると他の趣味にも言えることですが)…ということでもありませんし、自宅で「いい音を」といっても何かと制約があること考えれば、いい音で聴きたいとなればコンサートホールに出向くに限るというふうに、日ごろを欲求不満化するぐらいのところがせいぜいなのかもしれません(だからと言って、CDラジカセではなかろうなあとは思ってもおり…)。
友人の中には手持ちのCDをすっかりデータ化して売り払い、いわゆるPCオーディオといいますか、そっちの世界に移行している者もおるわけで、断捨離的観点にも適う選択なのでしょうけれど、モノとしてのCDをプレーヤーのトレイに置いてスイッチを押す…その始まり感も含めて音楽を聴くという行為になっている(友人はこれを「儀式」と呼びますが)ことからしても、そのモノがなくなることには些かの抵抗感があったりもする(同じ理由でレコードも所持し続けており…)。このあたりの悩ましさは今しばらく続きそうでありますよ(笑)。