読響演奏会@東京芸術劇場を聴いてきたのでありまして。この日の演奏会のことを話題にするならば、まずは角野隼斗の登場を挙げるべきなのでしょうなあ。TVなどでも露出度の高い(といって個人的にはTV朝日『題名のない音楽会』でしか知りませんですが)ピアニストなだけに知名度は抜群でしょうし、また取り上げた曲というのが、フランチェスコ・トリスターノとの協演によるブライス・デスナー作「2台のピアノのための協奏曲」日本初演となりますと尚のことかと。

 

その方面の音楽をおよそ耳にすることのない者に、プライス・デスナーとは誰?てなものですけれど、当日のプログラム・ノートにはこんなふうに紹介されておりましたですよ。

デスナーはアメリカの著名なインディ・ロックバンド “ザ・ナショナル”のリードギタリストとして活躍するかたわら、クロノス・カルテットやデイヴィッド・ヤングらとのコラボレーションを通じて、現代音楽の作曲家としても成功を収めている。

演奏会では、ワーグナーの楽劇『トリスタンとイゾルデ』から前奏曲と愛の死に続く2曲目として取り上げられましたが、ステージ上に2台のピアノをセッティングするまでの場繋ぎとして?角野とトリスターノ、二人のソリストが入れ替え作業中のステージにやおら現れて、この曲の日本初演に際したワクワク感を語り出したりしたという。そこでトリスターノが引き合いに出したのが、詩人ボードレールの言葉「Le Beau est toujours bizarre.」だったのでありますよ。

 

どうやら「美しいものは常に奇妙なもの」といった意味合いのようで、ボードレールがこの言葉を発した背景やら真意のほどは全く知る所ではないのですけれど、言われてみれば「まあ、確かに…」と思ったりするところです。おそらくは、常に美を追求する芸術家(それがどんな分野であっても)は新しい「美」を提示して見せるわけですが、同時代的にその作品に接する者にとってはそれがとかく「奇妙なもの」と思えたりするのは歴史的にも繰り返されてきたことでしょうし。すぐに思い浮かぶのはもっぱら美術の世界でもありましょうね。

 

あとの時代になってようやっと一般の理解が追いついてきて、「そんな昔にこんなすごいことを!」てな持ち上げ方をすることはしばしあるわけですが、振り返って同時代的にはどうしても一般の理解を置き去りしてしまってきたとも言えましょうねえ。まあ、同時代にあっても分かる人には分かる…のかもですが。

 

とまあ、そんな話向きになってきますのは(すでにご想像のとおり)デスナーの協奏曲におよそピンと来ていない自分が演奏会にいた…てなことなわけですね。もちろん、演奏者に賛辞を惜しむものではありませんし、なにやら「すごい曲」だとは思いますが、それ以上でもそれ以下でもないところでして。エクスキューズになりますが、これをもってこの作品にダメ出しをしているわけでは全くありませんですよ。

 

個人的なことで言えば、古今の名曲とされて頻繁に演奏される曲目であっても、未だにピンと来ない…という曲は数多あるところでして、同じピアノ協奏曲という作品ジャンルでみますと、グリーグのピアノ協奏曲(あまりに有名な冒頭部分のキャッチ―さに「おお!」とは思うものの、その後の流れ)には五里霧中の世界に連れ込まれたような気になったりする。

 

録音媒体でグリーグ作品と抱き合わせ収録されることの多いシューマンのピアノ協奏曲も長い間、同様の状態でしたなあ。『ウルトラセブン』の最終回(だったかな)で印象的に使われるといった取っつき要素があるにせよ、耳にする度にやはり霧の中へと迷い込んでしまったいたような。

 

ただ、これがある時、『N響アワー』(という番組があったくらい以前)でこの曲が演奏されたのを見ていて(聴いていて)、まったくもって唐突に「いい曲ではないかいね!」と気付かされることになったことに自ら驚かされたものでありました。この時以来はむしろ、なぜ霧の中を彷徨っていたのかが分からなくなったくらいですけれど、同じようなことは美術作品を見ていてもふいに訪れたりするのではなかろうかと。「なんじゃ、こりゃ?」とばかり思っていたものが、ふとした、何かしらの気付きが「おお、素晴らしい!」に変じることもあるわけですしね。

 

ですのでデスナー作品もまた、時を経て接すると五里霧中からすっかり抜け出した自分を発見することになるのかもしれませんですが、個人的な思いとは別に一般的な受け止め方としてどうであるかというのが、今後も演奏され続けるか否かの分かれ目になるような。それを想像するに、果たして二度三度とこの曲を耳にする機会が巡ってくるのかどうかと思ったりするところです。これまた何も音楽に限らず、コンテンポラリーなアートの世界に共通することではありましょうけれどね。