京都・伏見の三栖閘門から今の宇治川の流れを見下ろしたところで、改めて三栖閘門資料館で見聞したところを振り返っておくことに。

 

 

三栖閘門自体は昭和初期の土木遺産ということですけれど、資料館の解説は伏見港を整備した豊臣秀吉からその歴史を紐解いておりましたですよ。伏見港を整備するための前提として、秀吉は長い堤を築いて宇治川と巨椋池の切り離し、宇治川に独自の川筋を作り出したことのようですな。

 

 

解説では三栖閘門の治水機能とともに明治から昭和に至る淀川関係の河川改修などに触れる流れの中で、元々、秀吉の工事からして巨椋池の氾濫対策とも治水のためというようにも紹介されていたような。

 

三栖閘門最寄りに京阪電車の中書島駅がありますけれど、この「中書島」という地名自体、かつてはこのあたりが巨椋池の片隅に浮かぶ島であったのであると。戦国の頃、秀吉配下で賤ケ岳七本槍のひとり、脇坂安治が島に屋敷を作ったことから、脇坂の任官名・中務少輔の唐名・中書をとって中書島と名付けられたとか。

 

ですが、為政者・秀吉の思い描いたところは民衆を水害から守るためという以上に、伏見・大坂間の舟運に適う川筋を作り出さんがためということにあって、こちらの解説文にこそ!という印象ですかね。

  • 豊臣秀吉の伏見城築城により、伏見は城下町としてた反映しました。その一方で秀吉は宇治川を改修し、この地に港の機能を持たせます。
  • 当時は、伏見~大坂間が淀川の舟運、伏見~京都間は陸上交通というのが一般的であり、伏見は舟運と陸路の中継点として重要な役割を果たしていました。淀川には秀吉が運航許可を与えた過書船が行き来していました。

文禄三年(1594年)宇治川を改修し、伏見城の築城を始めた太閤秀吉、京、大坂、奈良の結節点にあたる伏見にあって周囲に睨みをきかせたわけですけれど、一気に大きな城下町を造ったものですありますねえ。「東西約6km、南北約4kmの広大な地域を区画整理し、城を取り囲むように580以上もの武家屋敷を配置し」、さらに「城の西には商人町や職人町が設けられ、にぎわいをみせたそうで」であるということです。

 

 

それも4年ほどで命運が尽き、まさに伏見城でもって太閤は亡くなってしまう…となれば、登場するのは徳川家康でありますね。伏見においても、家康が別格であったことは上の絵図でも窺い知れますですね。

 

中央の一番下にある島のような場所に三つ葉葵の紋が描かれておりまして、「徳川大納言源家康公御屋敷」と。本丸、二ノ丸、三ノ丸まであって、あたかも城のようではありませんか。関ケ原前夜、加藤清正や福島正則ら、いわば武闘派の諸将が石田三成を襲撃せんとした折、三成は徳川屋敷に逃げ込んで…といったことが伝わりますが、ここを襲うのはもはや城攻めにも等しいことかと。

 

体よく?三成を佐和山に押し込めた結果、関ケ原の勃発となるわけですが、これに勝利した家康は「秀吉のまちづくりを引き継ぎ、伏見は江戸時代になっても依然として日本最大の城下町であり、政治都市でもありました」…とは解説にあるも、江戸時代になっても日本最大とは言いすぎなのでは?と思ったり。

 

ですが、舟運の交易拠点という位置づけは江戸期になっても変わらないどころか、いよいよ隆盛を極めることになるのは、あの!(「富士川水運の300年」展@山梨県立博物館で知る所となった)角倉了以の登場によるものかと。

 

 

先にも話に出ていたとおり、「大坂から船によって運ばれてきた物資は、伏見港で荷揚げされたのpち、陸路を利用して京都へとどけられてい」ところながら、慶長十九年(1614年)、角倉了以による高瀬川の開削が状況を一変させたのであるということで。「この運河の完成により、伏見港に集積された物資は船を使って京都の町へと運ばれ」ることになったわけでして。

 

てなことで三栖閘門資料館といいつつも、話はすっかり伏見港のことに終始してしまいましたですなあ。せめて三栖閘門が昭和初期の土木遺産であることに関わる展示物としてひとつ、かようなものがあったとは付け加えておきましょうかね。

 

 

これはかつて三栖閘門の操作室で鬼瓦として使われていたという部材だそうですけれど、「内」の文字をデザインした紋が入っていて、これは内務省を表しているそうな。内務省というと「明治?」てなふうにも思ってしまいますが、日本に内務省は1947年(昭和22年)日本国憲法の施行により廃止されるまでは続いていたのでしたか。

 

と、いささか無理やり三栖閘門の話に持って来たものの、角倉了以の方のお話がいささか中途半端であり…。ですので、そちらの話の続きは資料館を後にして伏見十石舟の戻り舟のついでに、はたまた下船後には高瀬川のあたりをぶらりとした散策のついでにも少し触れるといたしましょうね。