さてとお話は、京都・伏見の十石舟遊覧で戻り舟を待つ間に三栖閘門資料館を覗いた…ということの続きです。資料館や周辺を見て回って、あっと言う間に戻り舟が迎えにやってきたのでありますよ。

 

 

戻りは乗船場所までもと来たルートを反対方向に辿っていきますけれど、向きが逆の方が見えやすいもののありまして、ここが角倉了以が開削した高瀬川との合流点であるそうな。

 

 

左側の杭が建てまわしてあるところが高瀬川、右側が濠川(琵琶湖疏水)ということなのですが、もそっと間近で見なくてはという思いを募らせつつ、下船場所まで戻って来た次第なのですなあ。ちなみに、この船は「千姫」と名付けられており、別の一艘は「秀吉」ということなんですが、なんだか組み合わせがしっくりこない…。ま、他に「秀頼」とか「淀君」とかいう船があるのかしれませんけどね…。

 

 

ともあれ、掘割沿いの遊歩道も心地よさそうであることに釣られて、先ほど船から見た高瀬川と濠川の合流点までぶらぶら歩いてみようということにしたのでありますよ。

 

 

船着場のすぐ裏手からこのあたり右手にはずっと、大きな酒蔵が見えています。伏見発で全国区の銘柄である月桂冠ですな。この日は時間的に記念館が閉館していましたので、これはまた後に訪ねるとして取り敢えず水路に沿っていくことに。しばしの後、さきほど十石舟で通り過ぎた濠川(琵琶湖疏水)との合流点に到達、三つ又になった流れを跨ぐ橋から見ますと、正面が船着場に至る水路(宇治川派川)、左手から濠川が流れてきています。

 

 

ここまで来れば高瀬川の合流点ももうすぐですな。何せ、傍らには「角倉了以翁水利紀功碑」が建てられてあって、水路の変遷を説明する解説板も設置されていますし。

 

 

 

年代としては、左から順に江戸時代、大正11年、昭和11年の水路のようすを示したもの。にところから、。一番左側に上からまっすぐに下りてきている水路が高瀬川になります。ここでちょいと、三栖閘門資料館の解説を引いておくといたしましょう。

高瀬川は京都の豪商・角倉了以と息子の素庵により開削されました。工事は1611年(慶長16)から約3年をかけ、二条から伏見港までを結ぶ幅約8m、全長11.1kmの大運河となりました。底の平らな十五石積みの高瀬舟が行き来し、京の町への水上輸送手段として活躍しました。

で、今ではすっかり幅が狭まってしまっていますが、石碑の裏側を高瀬川が流れて濠川に合流しておりましたよ。

 

 

今やとても高瀬舟の往来は望めないでしょうけれど、ちとこれを上流方向へ遡ってみることに。

 

 

水路の変遷で図示されていますように、ほどなく高瀬川は左(西方向)に、そして続いて右(北方向)カーブして京の町につながって…いたわけですが、昭和11年の図に見えているとおり、すぐ脇を新高瀬川(あるいは東高瀬川)が並走し、高瀬川の方は途中で流れが途切れるように描かれておりますねえ。

 

 

左側に東高瀬川の流れがある土手では、旧来の高瀬川は右手の草陰でもはや存在感は無し…という具合。埋め立てられてしまわないのが不思議なくらいですけれど、これも歴史の重みを受け止めるお土地柄なのかもしれませんですね。

 

 

ぼんやりと川面を眺めつつ、「これを遡れば京の町なかであるか…」と。ま、今回の旅ではそっち方面には一切近づかなかったのですけれどね(笑)。