「天才っているんだなあ…」と、今さらながらしみじみと。
GW後半に信州をうろうろしていた間、TV番組の録画が少々溜まっておりましたが、それの在庫蔵出しセール(?)に勤しんでおりますが、その中にEテレ『ドキュランドへようこそ』で再放送されていた「無調の輝き 現代音楽に魅せられた少年」を見ていて、そんなふうに思ったのでありますよ。
あどけない少年ながらショスタコーヴィチなどの現代ピアノ曲を弾きこなし、自身で作曲もするツォトネ・ゼジ二ゼは10歳。ジョージアで祖母と妹と暮らす少年音楽家の日常。
というような内容の、ジョージア(かつてグルジアと呼ばれていた国ですな)のドキュメンタリーですけれど、ジョージア・フィルというプロ・オケと共演し、ショスタコーヴィチのピアノ協奏曲を弾く姿などは10歳の少年とは全くもって思えないほど。そして何より自ら作曲したというピアノ曲がドキュメンタリーの全編を覆っていて、これがまた実に実に情感豊かな響きであって、月並みな言い方ながら「音楽に国境無し」てなことを思うわけです。
さりながらこのツォトネ少年、大好きな妹やおばあちゃん(といってもピアノ教師で彼の師匠でもあるのですが)といるとき、はたまた楽屋で出待ちをしているときのようすは、いちいち「子供であるなあ」なのですよねえ。こまっしゃくれてもいないし、えらぶってもいない。時に我がままも言ってぷいといなくなってしまうような子供なわけです。モーツァルトが小さい頃におちゃらけた(時に下卑た)手紙を書いたことはよく知られていますけれど、そのあたりとも通じる空気を感じたりも。
あいにくと、タイトルにある「無調」、「現代音楽」云々という点ではそれほど中身との関わりがあったように思えないのですが、確かにショスタコーヴィチも現代曲といえば現代曲ですし、映像を彩るツォトネ少年の奏でる自作曲にも現代曲っぽい、無調の要素が無いとはいえませんが、それでも穏やかなものですし。
とはいえ、そのツォトネ少年がさまざまな音風景を紡ぎ出すのにあたっては、おそらく育ってきた環境はやっぱり関係無しとは言えないような気がするのですよね。国全体が、とはいかないにせよ、ジョージアはヨーロッパの桃源郷と呼ばれたり、コーカサスの桃源郷と呼ばれたりするところですので、豊かな自然に囲まれて、自然界にあるさまざまな音を聴いて心象風景を描く…なんつうことも、これまた日常なのでしょうから。
自然にある音というのは、ともすると雑音とも思ってしまうのが都会に住む者の悲しさでもありましょうけれど、本来的に自然にある音というのは必ずしも耳障りなものではなかったろうと。むしろ、黙っていると静寂が支配する中で、鳥のさえずり、虫の音、風のわたる音、川のせせらぎの音などなどに耳を傾けて、愛でてきたのもヒトの姿でありましょうし。そんな環境からインプットされた音の風景をツォトネ少年はピアノでアウトプットしていたのかもしれません。
と、そんなふうに思ったところでまた別のTV番組を見て、さらに考えを巡らせることに。NHKで再放送された『ケの日のケケケ』(特別版)というドラマでありました。
聴覚過敏(加えて視覚過敏、味覚過敏も)を持った高校生が主人公なのですが、令和の時代を知る前の「昭和な」小川市郎かくやと思わせる教師が繰り出す「不適切にもほどがある」言葉の数々は、ちと現代感覚とは乖離したものを感じたりもしましたが、ともあれ、主人公が抱える症状(というのですかね)に対してあまりに無思慮なことに対して、かわす、やりすごす、何もしないという形で奮闘(?)するさまが描かれるわけなのですね。
で、ここで聴覚過敏ということですけれど、過敏というのは敏感に過ぎることを言っていて、過ぎるのは誰に比べて?そりゃ、普通の人、大多数の人なのでありましょう。おそらく、ヒトは長い歴史の中で取り分け近年(と言っていいくらいのスパンですが)、人工的な音をたくさん生み出してきて、便利に生活を送るためにはある程度やむを得ないのだと(生活騒音という言葉もありますな)、むしろ聴覚鈍感になる方向へ順応(進化?)してきたのでもあろうかと。
そうなってくると、鈍感の方向へ順応していない人は過敏として普通じゃないとされることになってしまうのですが、そのこと自体、そもそも変じゃね?とも言えるような。
今ではあまり使われなくなった用語例に、何かしら弱み(のような点)を付いた言葉が投げかけられたとき「ぐさっときた」という言い方がありましたですね。実際に刃物が突き立てられたわけではないものの、あたかも刃物が心に刺さったようなことを言う比喩ですが、例えば聴覚過敏と言われる場合には音がナイフのように突き刺さってくるのでありましょう。それは恐怖以外の何ものでもない。
それを、健常者(というより聴覚鈍感者でしょうか)は「我慢が足りない」くらいのことで終わらせてしまうとすれば、そのこと自体も感覚的に鈍感の極みなのでしょうなあ。
考えてみれば、聴覚と音の関係のみならず、今の世の中にはさまざまなこと、ものが溢れ返っている。鈍感
にやり過ごさなければとてもじゃないけれどやっていけないようでもあろうかと。それが処世術ということにもなろうかと思いますが、そういう状況自体がそもそも変。そうした変なことを当たり前化して生きていくことをヒトはこの後も続けていくのでしょうかねえ…。