鹿児島県指宿市の「時遊館COCCOはしむれ」を訪ねてその考古博物館らしい展示を見て回ったですが、こうした常設展示とは別に企画展が行われていたのですな。雨降りであるがゆえにふいと立ち寄った施設なだけに、企画展とはいささかも気に掛けていなかったものの、入口部分からして「企画展へようこそ」の雰囲気を醸しているとなれば、やっぱり覗いてしまいますなあ。なにしろ、鹿児島と言えば焼酎ですしね。

 

 

企画展の正式タイトルは「海が織りなす焼酎文化~芋・技・肴・器~」でして、フライヤーでは開催趣旨をこのように紹介しておりますよ。

鹿児島の特産品として有名な芋焼酎は、世界的にも類を見ない酒です。その特徴は、風土にあった農産物さつまいもと海に開けた土地柄を生かして導入した蒸留技術とを組み合わせて独自の蒸留酒を開発してきた点や、その土地の風土が生んだ多様性にあり、近年では文化遺産としての面も注目されています。そして指宿は、中世から国際貿易港として外国の文物が流入する環境にあったことから、利右衛門によるさつまいもの伝来をはじめ、焼酎文化形成の歴史に深く関わってきた地でもあるのです。

 

「鹿児島県には111もの蔵元があり、その数は日本一」ということですけれど、改めてそもそも焼酎とは?

 

 

 

展示解説では文化の源流から辿るべく「世界最古の酒の起源」というところから始まるのでして、世界最古の酒造りの証拠は約9,000年前の中国・賈湖遺跡にありとのことですが、遠大な歴史をここではざっくり端折って、時の流れは16世紀へ。鹿児島に関わることとして「焼酎最古の記録は山川にあり」との解説まで一気に進んでしまいましょうかね。

 

 

これまた『ブラタモリ』指宿編で紹介されていおりましたが、16世紀半ばにポルトガルから来航して指宿・山川港に滞在した商人が日本滞在記を残して、これを読んだフランシスコ・ザビエルが日本渡航を決意し…と歴史の転換点に触れていたですね。ですが、このポルトガル商人に手記に記されたのが「焼酎最古の記録」であるということまでは扱っておりませんでしたなあ。

 

ただし、この時に記録されたのは「米から作るオラーカ(蒸留酒)」ということであって、温暖なだけに日本酒の寒仕込みが難しい土地柄、醸造酒でなくして蒸留酒を造ることはやっていたとしても、原料は米であったと。のちに「さつまいも」と称される原料は未だ到来しておらなかったわけで。

 

 

さつまいもは原産地である中南米からアジアへ、中国から琉球を経て鹿児島けともたらされますが、最古の記録は「1611年、琉球王尚寧が薩摩の諸将へさつまいもの羹を出し、土産に生芋を贈った」という記述にあるようで。

 

ですが、鹿児島にこの後すぐさまさつまいも栽培が広まったわけではないそうでして、そこに登場するのが上のフライヤー引用中に名前が挙がりつつも「誰?」と思っていた利右衛門さんだったのでありますよ。南の島々と交易する船の船員であった利右衛門は琉球からさつまいもの苗を持ち帰って自分の畑に植え、近所にも栽培を促したようで。時に宝永二年(1705年)であると。

 

これが救荒作物として頼りになることが知られてどんどん栽培が広がり、八代将軍吉宗の時代には広く日本国内で栽培が奨励された…という話はまたまた、『ブラタモリ』で紹介されていましたっけ。利右衛門さんの話は出なかったと思いますが。

 

ともあれ、さつまいも栽培が進んだ鹿児島ではこれを原料に焼酎造りが始まっていくものの、「実は、さつまいもは焼酎造りに不向きな作物で」あったそうな。「傷みやすく、収穫時期が限られ周年操業が困難、デンプン含量が少ないため効率が悪く、蒸すと甘くなり雑菌に汚染されやすいなど多くの課題」があったといいます。これらを技術でカバーしていった結果、現在に至るということになりましょうけれど、「蒸すと甘くなり…」という部分も克服されたからこそ「焼き芋焼酎」なんつうものまで登場しているのですものねえ。

 

 

ちなみに鹿児島では晩酌のことを「だいやめ(だれやめ)」というそうですが、意味合いとしては一日の終りに「だれ(疲れ)」を「やめる(止める)」のことであると。旅先ですので晩飯処ではついついお酒の少々も…と思うわけでして、普段はビールから日本酒へと向かうところながら、鹿児島にあっては驚くほどに日本酒がおかれておらない(あっても至って少ない銘柄)なのですなあ。打って変わって焼酎メニューの豊富なこと、豊富なこと。これも驚くばかりでしたですが、その味わいにつきましては、また別途に触れることがあるやもしれませんです、はい(笑)。