たまには日頃と毛色の異なるものでもと、『WOKE CAPITALISM 「意識高い系」資本主義が民主主義を滅ぼす』なんつう一冊を手にとってみたのでありますよ。東洋経済新報社が出している本に目を向けるのは、全く無いとは言わないまでも、かなりレアなことですかね…。

 

 

「woke」というのは(いうまでも無いことながら)「wake」の過去形で「目が覚めた」という意味。これを「目覚めた」という意味合いで使えば形容詞的にも使えるわけですな。で、「woke capitalism」は要するに「目覚めた資本主義」となるわけですが、世の中に横溢する諸問題に目が開かれていると言えば「おお、意識が高い」てなことにもなろうかと思いますが、これを「意識高い系」と言ったとたん、意味合いには影が差すことになりましょうか。

 

元々は公民権運動などを通じて社会の問題意識に目覚めていることを差す黒人スラングとして「wolke」は広がり、元はいい意味で使われたようですけれど、それがいつしか「woke」と言えば揶揄、はっきりと批判を含む言葉にもなって現在に至っているようなのですな。つまり、資本主義の担い手たる大企業やそのオーナーの大富豪たちが「woke」状態となる(あるいは自分はそうなっていると思い込む)ことが、実は世の中を危うくしている。著者のカール・ローズという人はシドニー工科大で組織論を教える教員ということですが、その著者曰く、はっきり言えば「民主主義を危うくしている」ということで。

 

読んでいて、民主主義との関わりの部分では「この方(著者)は、「民主主義」を信じているのだね…」と思うわけですが、個人的にはそこまでの熱い思い入れを共有することができないでいるものですから、ここから先、本書の論旨とは外れるかもしれませんけれど、取り敢えず思うところを含めつつ。

 

ですが「woke資本主義」が「民主主義を滅ぼす」というあたり、著者の言を拾っておくとしましょうね。いわゆる「意識高い系」の大富豪、大企業は社会的に有益と思しき寄付を(庶民からすれば、それこそ惜しみなく)することに触れて、こんなふうに。

億万長者たちの贈り物にケチをつけるとしたら、その寄付の背後にある動機を探るべきだろう。長きにわたり私利私欲にまみれたビジネスをビシビシ展開してきた彼らが、ようやく利他的な社会正義の戦士になる決心をしたとでもいうのであろうか。そんな説明はおめでたすぎる。ウォーク資本主義の下では、社会的不公正や貧困の解決をもう国家に頼ることができない。そこで、社会は、ご主人さまの食卓から落ちてくるパンくずという慈善に頼ることになる。そのパンくずは、ありがたくも超富裕層が決めた場所だけに落ちてくる。

問題視されるのは、寄付、支援、援助が「超富裕層が決めた場所だけに落ちてくる」ということなのでしょう。ちょいと前にNHK『アナザーストーリーズ 運命の分岐点』で米国・デトロイト市の財政破綻を取り上げていましたけれど、お手上げ状態のデトロイトに対してミシガン州は徹底的な緊縮財政を求めた結果、多くの世帯で水道・電気が止められ、小学校や救急車や警察官も削減されて、市民は困窮し、治安に大きな不安を抱えることにもなっていったのであると。

 

この行政がお手上げ状態の中、手を差し伸べたのが(かつて自動車王国であったデトロイトだけに)フォード財団やGM、トヨタといった大企業であったとなりますと、「大企業、えらい!」ともなるような。さりながら営利企業が何百億ドルもの資金拠出するというところには、(そうであって当然なのですが)自らのビジネスに利するものでなくてはならない。株主の利益を損ねることになりましょうからね。利するからくりの深いところまでは分かりませんけれど、少なくともこうした(英雄的?)行為は企業評価を高めることにはなりましょう。考えようによれば、見合うもののある宣伝広告費なのかもしれません。ですが、この資金、いったいどこから出てくるのありましょうかね…と思えば、こんな紹介もありましたですよ。

最近アメリカで発表されたある報告から、富裕層の上位1%だけで、全脱税額の70%を占めることが明らかになった。これは、年間900億ドル近くが彼らの懐に入ったままということだ。世界的に見ると、上位1%の富裕層は、その他すべての人たちを束にしたよりも裕福であり、このとてつもない格差は、かつてないほどの租税回避や脱税によって実現されている。

脱税となれば犯罪で、租税回避がどれほどぎりぎりの線で行われているのか。これも詳らかではないながら、勤め人ならば有無を言わさず源泉徴収されたりするところを法人の方はやっきになって納税を回避しようとしていることが窺えますですね。結果、行政は税収が上がらずになす術の無い自体が生じたことに、「どうです、えらいでしょ」とばかり寄付(宣伝広告費?)を投じることが行ったりもするのかと。

 

ですが、こうした営利企業が租税回避以前になぜに巨額の寄付を可能にするほどの利益を得られるのであるか。こちらについては、こんな紹介もありましたなあ。

実質的には、右手で慈善事業に何十億も与える一方で、左手で民主主義と平等という希望を奪うことになるのだ。不平等を生み出す根本的なシステムは何も変わらない。つまりは、億万長者の贈与は、そもそも彼らを億万長者にしたシステムに根本的な変化が起きないようにすることと、引き換えなのである。

「民主主義を奪う」という方は、要するに本来的には自然人も法人も納税することによって得られた財源でもって行政が公共の福祉などを実現する道を閉ざしてしまうといったことですし、「平等を奪う」という方は、例えばですが、大企業のありようとして大手スポーツメーカーのナ〇キが挙がっておりましたですよ。

 

「ブラック・ライブズ・マター」を肯定的に支援する行為(宣伝広告を含んで)を見せる会社として認知される一方、インドネシアの工場では現地労働者の環境・対偶がいっかな改善されることがないといったことで。両者はあまりに対照的で、自然人であればもはや性格が破綻しているのではとも思しきところながら、(営利)法人ともなりますと、どちらもが自らの営為にとって必要なことと受け止められてしまうのでありましょうかね。

 

いつのまにか企業の間では「CSR」という言葉が一般化しましたけれど、そも企業(とそのオーナー)にとって莫大な資産が蓄積されるほどに儲かること自体に疑問を抱くことこそが社会的責任なのではなかろうかと。上前をはねておいて、それを都合のいいように露出できるところに投下するのが「CSR」とはちゃんちゃらおかしいと、それこそ「woke(気付ける)」ようにならねばいけん。そんなふうに思ったものでありますよ。

 


 

 

ちょいと慶事の催し(といっていいのでしょうなあ…)がありまして、都心方面で一泊してきますので、明日(1/28)はお休みいたします。また明後日(1/29)にお目にかかれますことを楽しみにしておりますです、はい。