さてと、千葉県佐倉市の国立歴史民俗博物館の常設展示は先史時代から近現代に至るまで、歴史をなぞる解説があるわけですが、今回は(その後の佐倉市内ぶらぶらの都合もあり、誠に残念ながら)弥生時代あたりまでのところで、後はそそくさと通り過ぎることになりまして…。ですので最後といたしましては、その弥生時代を振り返っておこうという次第でありますよ。

 

 

ということで、のっけから「弥生文化とはなにか」と大上段から。一応、解説文を引いておきましょう。

水田稲作がはじまってからの約600年と、後半の約600年は大きく異なる。前半は金属器のない石器文化最終末段階にあたり、後半は石器と青銅器と鉄器が使われる初期鉄器文化段階にあたる。これまでのいわゆる弥生文化のイメージは後半を指す。

縄文から弥生への緩やかな時代の変化、途中では相互乗り入れやせめぎ合いがあったことが偲ばれるわけですが、ここでふと考えてみますと、日本の歴史における時代区分は世界史のそれとはいささか様相を異にしておりますよね。

 

世界史の時代区分はざっくり、石器時代、青銅器時代、鉄器時代…と続いていくところながら、日本では土器に着目して石器時代にオーバーラップしつつ縄文時代、弥生時代と続いていくわけで。ここいら辺も横断的に世界史を見る中で、後に日本と言われるようになる地域ではその頃どうしていた…というのが、結びつきにくくなっているような。もっとも、そこには当然に地域差があって、西洋が段階を踏んだ青銅器、鉄器が同じような頃に伝来したとなれば、青銅器時代、鉄器時代といった区分はしにくいわけで…。

 

とまあ、そんな弥生時代ですけれど、南北に長い列島状であり、北から南から西からそれぞれに文化流入のあったであろう地域が弥生一色に染まっているばかりではないのですよね、当然に。解説の下方に見える「3つの文化説」というのは北に続縄文文化、南に貝塚後期文化、そして本州・四国・九州地域に弥生文化が併存していたと従来から解かれていたことのようで。これに「従来の考え方である」と断りが入っているのは、今では(解説の上方のように)「4つの文化説」を採る考え方もあるようですね。それぞれの解説も引いておくことに。

  • 3つの文化説
    紀元前4世紀以降、日本列島は水田稲作をおこなう本州・・四国・九州の弥生文化、北の海の海洋漁労に依存する続縄文文化、南のサンゴ礁の魚貝類採集に依存する貝塚後期文化の3つに分かれる。従来の考え方である。
  • 4つの文化説
    紀元前3世紀に水田稲作の範囲は最大となるが、利根川を挟んで北と西の水田稲作文化は、社会の複雑度や広域祭祀の面で大きな違いを見せる。もし両者を別の文化と考えるなら、続縄文文化、貝塚後期文化とあわせて、4つの文化となる。

4つの文化説では祭祀にも着目しておりまして、このありようも徐々にオール弥生化していく前段、列島の東と西にあった違いとして、展示では「まつり」を取り上げておりましたよ。

 

 

こちらは「東のまつり」に関する展示ケースでして、一見したところでは「縄文(の名残)でないの?」と思うものの、解説にはこのように。

中部・関東地方では畑作の比重の高まりとともに土偶が変化して男女一対になった土偶形容器や、顔を描いた人面土器を用いて祖先を敬うまつりが、むら単位で小規模におこなわれていた。水田稲作の開始とともに激減する。

当初の一見では「縄文?」と思うも、よく見れば土器の胴部のすっきり、さっぱりしたところや、ヒト形の写し方などはもはや埴輪かとも思えるさまは、やはり時代の変化があるということなのでしょう。一方で、「西のまつり」です。

 

 

「西のまつり」の祭祀具として展示されていたのは、ひたすらに銅鐸、銅鐸、銅鐸…。青銅器の伝播が色濃く表れているようで。

紀元前4世紀ごろになると、西日本では木でつくった鳥や人形、青銅器を用いた新たなまつりがはじまり、やがて複数のむらを巻き込んだ広域のまつりに発展する。土器には祭殿や鳥の衣装を身につけたシャーマンが描かれている。

ここに出てくる「鳥」については、静岡県の登呂博物館の展示解説に「鳥はイネの魂を運ぶ神の使者として、米作りのムラで厚い信仰を受けていました」とあったことを思い出しますなあ。シャーマンは鳥の仮装をしていた…となりますと、後の卑弥呼も?と。試みに「卑弥呼」でイメージ検索してみますと、どうもモデルは天照大神じゃね?という画像が山ほど出てきますが、こうした図像イメージには何か拠り所があるのですかね…。

 

 

ところで、縄文と弥生のせめぎ合いを生んだであろう水田稲作そのものはどのように拡散したのであるか、おそまきながらこれを振り返っておくとしましょう。

水田稲作は約250年間、九州北部にとどまったあと、紀元前8世紀末から南や東へとひろがりはじめる。約200年で伊勢湾沿岸まで面的にひろがり、さらに150年あまりで東北北部まで日本海側を海路で一気に北上する。

こうした稲作伝播のありようは想像に難くないところではありますが、中部地方、関東地方、南東北のあたりが縄文の最後の砦状態にもなったろうことと、麺的な広がりでは伊勢湾に到達してひと段落ということとを併せてみれば、かつての妄想がまた思い出されてくるところですなあ。

 

水田稲作由来の信仰形態の神様である天照大神を祀る場所を探して求めて旅した倭姫命が、結局のところ伊勢の地を選ぶことになったというお話の背景には、縄文の名残りの色濃い中部地方以東には進むに能わず、引き返してたどりついた伊勢こそが稲作が(陸路で)伝わった東端(日の出を望める土地)だったてなことがあろうという妄想、全く裏付けはありませんが個人的には気に入っておりまして(笑)。

 

…ということで、国立歴史民俗博物館で今回見たところの振り返りはここまでとしまして、引き続いては佐倉の街歩きのようすを触れてまいることにいたします。

 


 

と、気付けば2023年も大晦日となりました。コロナ禍以降、海外へと足を運びにくくなったことと相俟って、近頃は歴史にしてもなんにしても、日本国内ネタ偏重となっております点、我ながら「どうしたことか…」と思ったりもしておるところながら、それにも関わらずお付き合いくださった皆さまには改めて有難く御礼を申し上げたく存じます。年明けは少々お休みを頂戴いたしますが、2024年もまた変わらぬご愛顧のほど宜しくお願い申し上げます。皆さまが良いお年をお迎えになられますことを祈念しております。では、また。