岐阜県多治見市の美濃焼ミュージアムでもって美濃焼の1300年を振り返っておるわけですが、古い古い時代にも、はたまた現代においても日用食器で大きなシェアを誇っている美濃焼にひと際光の当たった時代を見ていくことに。安土桃山から江戸初期、主に慶長年間に茶の湯との関わりからスポットがあたったようでありますね。

 

 

こちらは多治見市の尼ヶ根2号窯という窯跡から出土した16世紀の天目茶碗ですけれど、美濃焼に熱い視線が注がれる以前にもこの手の茶陶が焼かれていたのですねえ。そも(といって茶の湯にはおよそ詳しく無いことを予め申しておきますが)室町時代から戦国時代にかけて茶の湯が身分的上位層に広がりを見せますが、あくまで使われる道具では唐物(中国からの舶来品)が重用されていたそうな。当時の国内産(今焼というらしい)にはおよそ目をくれることなどなかったところながら、窯元としてはせっせと唐物を写し、模倣し、やがては超えてやろうという心中ではあったかもしれませんね。

 

戦国武将たちの茶の湯愛(茶の湯の名物愛?)としては、平蜘蛛の茶釜(あいにくとやきものではありませんが)を差出せば赦すという信長に対して、松永久秀は釜を抱えて爆死した…てなふうにも伝わったりしているあたり、尋常ではない熱の入れようが窺えようかと。で、平蜘蛛を欲しがった信長の方ですけれど、こんな朱印状(展示は複製)を残したということで。朱印の印判には「天下布武」と見えますですね。

 

 

「瀬戸焼物釜 事如先規彼 於在所可焼之 為他所一切釜 不可相立者也」と記されているようでして、瀬戸の「焼物を奨励する一方、場所を決め他所に移ることを禁止してい」る内容だそうな。今焼が注目される萌芽として受け止めるか、はたまたやきものが産業として大きな利益を生むことに着目していたとみるか…。今焼重用の風は千利休から古田織部へと受け継がれて勢いが増しますけれど、その利休は信長にも仕えていたわけで、いささかの影響はあったのかもと思ったり。

 

ともあれ、千利休の今焼重用は「京の長次郎に焼かせた楽茶碗」が象徴的な出来事のように伝わるわけながら、どうしてどうして「楽茶碗は瀬戸黒の影響を受けて作られ始めたと考えられてい」るのだそうな。「瀬戸の名が付けられていますが、美濃独自のやきものです」と展示解説にあるのは、美濃焼としては言っておかねばならんことなのでしょう。

 

 

で、こちらがその「瀬戸黒」の茶碗になります。「鉄分を多く含んだ釉薬を施し、頃合いを見て焼成中に窯の中から引き出して急冷させることで美しい漆黒に発色させます」と解説される独自製法は、この後さまざまに「黄瀬戸」や「志野」などで展開されていくのですなあ。一方で、ロクロで筒状に立ち上げながらも口辺に歪みを残した形状は、その後の織部好みに繋がっていくように思えますですね。

 

黒が際立つ発色の「瀬戸黒」はここから「さらに、ロクロ目を強く残し意図的に沓形に歪める「織部黒」へと変化してい」くそうですが、こちらが「織部黒」の茶碗ということに。

 

 

織部が茶会に用いた器が「へうげもの」と評されたことには先にも触れたですが、なるほどの造形でもあろうかと。ちなみに「織部黒」と「黒織部」とはどうやら区分けされているようで、このあたりも含めて「織部焼」と総称されるさまざまな器を、次に見ていこうと思っておりますよ。

改めて触れようかと思います)。