このところ「そう言えば…」と思いついてしまったことがありまして、手に取ったのが河出新書の一冊、『女ことばってなんなのかしら?』でありました。
まあ、思いついたといっても今さらながらの気はしていましたし、同じことを気に掛ける人はいるようで、本書にもこんなふうに記されておりましたですよ。
「実際にはあまり使われていないのに、メディアや翻訳小説、映画の字幕や吹替に頻繁に登場する女ことばに違和感がある」という意見を、近ごろときどき目にします。
個人的には「…に頻繁に登場する女ことばに違和感がある」というよりは「…に女ことばが頻繁に登場することに、おや?と思う」ということでして、両者は微妙に違うように思うも、それはともかくとして。要するに「~かしら」、「~なのよ」、「~だわ」といった類いになりましょうか。日常の場面で全く使われていないとはいいませんですが、耳にすることは稀になっているような。小津安映画の原節子じゃないんだから…なんつうふうにも思ったりもして。
ですが映画やドラマの字幕にこれが頻出するのは、良し悪しは別として「役割語」としての便利な(?)機能があるからということでもあるようで。翻訳小説に顕著かもしれません(ちなみに本書の著者は翻訳家でもあるそうな)が、会話が続くような場面ではひとつひとつの発言が誰によって発せられたのか、わかりにくいことがありますですね。それを助ける術として、発話者が女性の場合には「~かしら」や「~なのよ」を用いると判りやすくなると。
映画やドラマの場合、話し手は画面の中に姿を見せていることが多いですから、小説に比べれば使用する状況には乏しいのかもしれないものの、それでもぽんぽんと会話が続く場合には、誰の発言?となってしまうこともあろうかと。それを回避するための術が「役割語」だということなのですなあ。「~なんじゃ」と言えば、おそらくはおじいさんだろうと思い浮かべますし、「~なんだもん」となれば幼い子供(とばかり言えないかもですが)を想像する。その類です。
が、…とこの先も本書に沿った話をするとなりますと、想像はつくところながらジェンダー・ギャップの話に深く入っていくことになるところながら、そのあたりに問題意識が無いわけではないものの、その辺は別の機会に委ねるとして、本書を読みながら気付かされたことをちと振り返っておこうかと。
まずもって、日本語には主語が無い(無くても通じる、ではなくして)という指摘でしょうか。どうやら本書の著者ばかりが言っていることではないようですね。例えば(と、勝手に思い浮かべた例示ですのでとんちんかんかも)、「雨が降っている」と言った場合、これまでの常識(なのかな?)で考えれば、主語は「雨が」、述語が「降っている」となりましょうけれど、この一文はまるまる「雨が降っている」状態を言っているわけで、誰か(主語に相当)が何かをする(述語に相当)と区分ける意味がそもそも無いわけです。
英語でならば「rain」という動詞ひと言で「雨が降る」と言えてしまう。ところが、英語には主語が必要不可決(イタリア語やスペイン語で主語を省略することはあっても隠れているだけですね)ですので、わざわざ「It」を立てて「It is raining」と言ったりしなくてはならないわけです。で、主語に当たる部分には「I」とか「You」とか、人称代名詞が多く使われますが、日本語には人称代名詞も無いのだということに。
なんとなれば、「I」は「I」、「You」は「You」で厳然としたものであるということなのか、人称代名詞には一切形容詞が付加されることは無い。一方、日本語では「背が高い私は~」とか「まだ若いあなたが~」とかいう表現を普通に使っているわけですね。ここに出てくる「私」や「あなた」が人称代名詞でないとしたら何?と思えば、これが単に名詞ではなかろうかと言うわけです。
先ほど英語(少なくとも他の欧州各語も)の人称代名詞を「厳然とした」などと漠たる言い方をしてしまいましたが、うまく説明できないのがもどかしいところながら、はっきりとした主体となって明示されるものがなくても、日本語は成り立ってしまうということでもあろうかと。違う側面から見ると、日本語には受身的な表現が多いということも同じ根っことなりましょうか。
これまた例えば、「野菜が採れる」といったふうに何らの支障なく使ってしまいますが、野菜は誰かしら(本来の主体)によって採られているわけながら、それをはっきりは言わない。もちろん、英語その他にも受動態はあるものの、「野菜が採れる」はそも受動態でも無いのですよね。受動態だったら「野菜が採られる」になりましょうから。そのあたりのあいまいさは、日本語において全く気にされることがないわけです。
これらのことは、そもそも日本語というものが物事をはっきりさせることを嫌うというのか、体裁よく言えば奥ゆかしいというのか、そういう言語であるところへもってきて(と、やおら本書の内容に近づいてきますが)、取り分けゆかしさといいますかね、婉曲さを含んだ言い回しが女性に求められてきて、本書にいう「女ことば」をも含む女性らしい言い回しというものが作り上げられてきた。そのことに対する気付きの有無は、相変わらず世界の中でジェンダー・ギャップ指数の極めて低いの状況を変えることになるのかも、というわけです。
本書ではジェンダー・ギャップに関わってくる言語上の事例をたくさん挙げておりまして、漢字表記にもそれは見られると。奇しくも上で使った「婉曲さ」の「婉」の字も女偏でできていたりするわけで。
ところで(と、またジェンダー・ギャップの話を脇に措いて恐縮ながら)現代の日本語は、はっきり言わない点にさらに磨きがかかってきているようにも思ったりしますですね。TVなどで何らかの専門家が登場し、「これはどういうことなのでしょう?」とコメントを求めれた際、「それは…だからかなと思います」と発言したりする。専門家で「かな」はないんでないのと思ったり。また、これまたよく耳にする「~であるかのような~」という言い回しは、本来微妙に異なる「~のような」と「~かのような」がもはや使い分けされることなしに、「か」の入った(つまりよりはっきりしない)言い方ばかりが目立ってきているようにも思うところです。
とまあ、ここでの語り起こしとも関連して読んだ本書本来の内容とも離れてきてしまいましたですが、いろいろと考えるところは多くあったなと思ったものなのでありました。