関東の人間には必ずしもピンと来ているわけではないのですけれど、兵庫県芦屋市は高級住宅地として知られているようで。それっぱかりの予備知識でもって、『あしやのきゅうしょく』という映画タイトルに接しますと、なにやら(映画になるほど)特別なメニューが学校給食ののぼるのであるか?てなふうにも思ってしまいますな、芦屋だけに。ですが、どうやらそういう内容ではなかったようで…。

 

 

要は公立の小学校で給食に携わる栄養士と彼女を取り巻く調理現場の物語でありましたよ。では、なんだってわざわざ芦屋が舞台であるか…と思えば、作品の公式サイトにはこんなふうにありましたですよ。

芦屋市では、給食開始当初より「温かいものは温かく、冷たいものは冷たく」作りたてを味わってもらえる自校式給食に加え、各校に1名専属で配置された栄養士によるオリジナルの独立メニューを展開するなど、給食への取り組みが注目されている。

だから!芦屋だったのですねえ、何も高級住宅地であるとかいうことでなしに(笑)。

 

どっぷり昭和な小学生だった者としては、校舎の一角に給食室があって、中では給食のおばさんたちがせっせと調理しているのが当たり前の光景とも思ってしまうところながら、これを敢えて「自校式」というからには、そうでない形態が多くあるいうことなのでしょう。そういえば、住まっている市でも給食センターてな施設があって市内の学校給食を一手に引き受けていたりするようで、「自校式」はもはや珍しくなっていて、だからこそ「あしやしのきゅうしょく」なのですなあ。

 

時流といいますか、ところによってはその給食センターなる施設もともすると「外注化」されたりしていて、委託を受けている食堂運営会社の破産によって給食提供ができない事態に…てなニュースがつい先ごろも聞こえてきましたですしね。

 

まあ、学校給食が単に大量生産・大量消費であることからすれば、スケールメリットの点で(自校式でない)集中管理は有効でしょうし、委託はコストセープにもつながることはありましょう。ですが、映画で描かれた調理現場を見るにつけ、給食はもはや大量生産・大量消費とばかり言ってもいられなくなってきていることが窺えますですね。

 

昔ならば個々の生徒の好き嫌いは「なんでも残さず食べなさい」のひと言で済まされてしまっていた(かつて野菜嫌いだったものの実感として)わけですが、好き嫌いはともかく、生徒がここに抱えた食物アレルギーへの配慮や、生徒の多国籍化による宗教上の制約などにも配慮せねばならないとなれば、大量に同じものを作る大変さの傍らで、カスタムメイドの品々をも作らなければならなくなっているわけで。

 

長距離便の飛行機に乗っていますと、時折個別に機内食の提供を受けている方を目にして、やはり宗教上の理由とかベジタリアンである、ヴィーガンであるとかいうことへの対応でしょうけれど、数とバリエーションにおいて学校給食での対応の大変さは比べ物にならないことでありましょう。何しろ平日は毎日のことですし。

 

学校給食は戦後の食糧難に際して子供たちの栄養不良対策として広がりを見せたものと思いますが、食事が一斉一律であるのは当初こそ時代の要請でもありましょうけれど、このことは学校教育における一斉一律としっかり足並みが揃った印象もありますですね。翻って考えますと、多人数に対してまとめて何かを提供するというのは、教育のありようも給食のありようも、長い長い間行われてきた通りにはもはや行かなくなってきているのではと、映画を見ていて思ったところです。

 

映画の中では、こんなに生徒ひとりひとりの望みを聞いてくれるのであるか?!と…まあ、この部分はフィクションかもですが、これを見て「芦屋の給食はいいなあ、それに比べて…」と言った思いが生じかねないのはどんなものかなあと。皆が皆ではありませんが、今の世の中、「モンスターペアレント」なんつう言葉があるくらいに主張の強い親御さんもいるようですしね。

 

ともあれ、一般に大人にとって「懐かしい給食」てなことで語られることが多いですし、この映画や『おいしい給食』といったTVドラマが作られることも同様ですが、かといって給食に懐かしい、楽しかった、おいしかった思い出ばかりがあるわけでもありませんですよね。個人的に思い出したくもないということのないですが、今でもあまりナポリタンを食する気にはなりませんな。なんとなれば、給食で「死ぬほど食った」からでありますよ(笑)。