ゴッホやモーツァルトを思い浮かべるまでもなく、芸術で食っていくのは大変なことでありましょうかね。芸術家になりたい、具体的には画家であるとか、ピアニストであるとか、いろいろありましょうけれど、そんなふうに言い出した子どもに対して親が「それで食っていけると思っているのか、世の中はそんなに甘いものじゃない!」と一喝するようすは、数々のドラマなどでも見られた世界であるのかも。

 

ただ、芸術といって、ことさらに「アート」と称される分野においては一獲千金も夢ではない。かなえてくれるのはオークション、それもコンテンポラリーなアーティストの作品が先物買いよろしく、途方もない金額で取り引きされるのがニューヨークのオークションとなれば、文字通りの「アメリカン・ドリーム」ともなりましょうか。もっとも買い手の側は転売目的で、作品がただただ投機対象となっていると知れば、作り手の側としての思いやいかに。もちろん、厳然とこうした商売がある以上、「それで大金を稼いで何が悪いの」という作家もおそらくはおりましょうかね…。

 

 

というようなことをまず思い浮かべたドキュメンタリー映画『アートのお値段』なのですけれど、アート作品を要するにプレミア付き逸品とだけ見ている買い手のようすに「うむむ…」と思い、それだけになおのこと、美術館が買ってくれればいいのにと美術館に肩入れする気持ちも起こったり。ですが、冒頭第一に名前を挙げたゴッホにしても、困窮の元は作品が売れない、買い手が付かないことなわけですね。まあ、当時から買った絵画作品を投機対象と見ていた買い手もおらないかもしれませんが、それでも買った側がどんなふうに飾ろうと、はたまた倉庫にしまい込んでおこうと、それは買った側の勝手であったろうかと。一般の人々に公開されないのは不届きだといった論調は、おそらく一切なかったのでもあろうかと。

 

となれば、今の大金持ちが買った以上は品物をどうしようと勝手というのは、本来的なことなのかもと思い至ったりもしたわけです。が、こういってはなんですけれど、いわゆる古典的マスターピースに大きな価値が生ずるのは絵画史、芸術史の中で果たしてきた役割などの点をも考慮された結果として、大事に残されるべきものだからということでもありましょう。これに対してリアルタイム現代作品の場合は、些か異なる側面があるような気がしますですね。

 

要するに、古典的マスターピースのような裏打ちとなるものが無いにも関わらず、「どうやら人気があるらしいぞ」とか「どうやら高値で取り引きされているらしいぞ」とかいうふわふわした理由。まさにバブルですな。もちろん、仕掛けた人はどこかしらにいてほくそ笑んでいることでありましょう。

 

この手の作品にはヒロ・ヤマガタやクリスチャン・ラッセンら、百貨店などで展示即売会(近頃は広告を見なくなりましたが)されるものと近しいところはあるものの、展示即売会作品の方がいかにも「きれいきれい」「ハッピー感全開」といったキャッチ―さが流通を高めこそせよ、オークションに出番はない(といって、こうした作家の方々をどうのこうのではありませんですが)。オークション作品の方は小難しさがあって他の人には分からないであろう意味合いがあるのだよと囁かれる(解釈は人それぞれなのですけれどね)ことで、むしろ価値が高あるようなところがありましょう。稀少性ももちろん関係があるように思いましたですが、オークションで高値を呼ぶのは必ずしも一点ものばかりでもないわけで。

 

ともあれ、映画の中ではオークションで競り落としたコンテンポラリー作品を、マンハッタンの高層階にある自室に飾る大富豪の姿が映し出されたりしますけれど、コンテンポラリーなアート作品、というかアーティストとの関わり方で思い出すのは映画『ハーブ&ドロシー アートの森の小さな巨人』に見たあたりでしょうか。決して裕福とは言えないご夫妻はアート大好きで、それこそ画廊に赴いて自らの審美眼で「これぞ!」という作品を購入するのですな。これが何を意味するかといいますれば、これからのアーティストの育成に役立っているような。

 

もちろんハーブとドロシーには「私たちが育ててやっているのです」といったところからは離れて(アーティストの側には感謝されること頻りですけれど)、狭いフラットの自宅に堆く作品が積みあがる中、時折それぞれを眺めながら「あの時は、この時は」と夫婦で思い出話をしたりするのがお楽しみであるという。まあ、所詮大金持ちの気持ちが分かるはずもない者としては、そしてアートがそのお値段で新聞紙上をにぎわす状況の中、思い巡らすところはこんなことでしょうかねえ。