ちょいと前の東京新聞、『筆洗』欄(朝日新聞で言えば『天声人語』になりますか)に、1990年代後半だかに来日した米国要人から日本のある閣僚に土産として?バスケットボールが贈られた…という話が出ておりましたなあ。

 

もらった閣僚はその価値が分からなったようで、その場でぽんぽんとついて見せたということながら、実はマイケル・ジョーダンの直筆サイン入りのボールであったと。コラムの話はその後に「アカツキジャパン」のことにつながっていくわけですけれど、この部分だけで言えば、今も昔も日本の政治家の時代感覚のズレが指摘されてもいるのでしょう。90年代のジョーダンは米バスケットボール界で大活躍、当然にその姿は日本にも伝わっていたわけで。

 

さりながら、日本でバスケットボールの人気は当時今ひとつ。まあ、『スラムダンク』の漫画連載は始まっていたので、今ひとつとは言いすぎかもですが、一度も読んだことがないとあってはかの閣僚のことをとやかく言えないかもですが(笑)。

 

とまあ、そんな新聞コラムを思い出しましたのは、映画『AIR/エア』を見たからでもありまして。時は1984年、かのマイケル・ジョーダンはこれからプロでの活躍が期待されていた…という時代に、バスケットボール用のシューズでは他のメーカーの後塵を拝していたナイキで、大ヒット商品『エア・ジョーダン』の誕生につながるビジネス成功秘話的なる物語なのでありました。

 

 

どっぷり昭和な子供の頃に靴といえば、ズック、運動靴てな言い方くらいしか無かった世代なのですけれど、それでも中学時代でしたか、高校時代でしたか、「バッシュー」なるものがある程度の流行りを見せていたような。「バッシュー」とはいわゆるバスケットボールシューズのことでして、それも決定的にブランドはコンバースのものでしたなあ。およそ流行りすたりに流されるところは無いつもりながら、それでもコンバースのハイカットを履いていたことがありましたですよ。

 

映画の物語はそんな個人的思い出よりももそっと後になりましょうけれど、その頃でもまだ本場・米国でのバスケットボールシューズ市場は一にコンバース、二にアディダスであったようで。まあ、コンバースが1908年創業、またドイツの靴職人がアディダスの看板を掲げたのが1949年ということですので、これらに比べて後発だったナイキのシェアが大きくなかったのはやむなしでしょうかね。

 

で、どのくらい後発かというあたり、Wikipediaの紹介を見てみれば、19718年であると。「ナイキ」というブランドを掲げて自社製品を作り始める以前の数年間は、なんとまあ、日本の「オニツカタイガー」(現・アシックス)の販売代理店だったとは。スポーツシューズ市場に新規参入したナイキが、当初はランニングシューズ、ジョギングシューズで一定評価を得るようにもなるのも、シューズ製作のノウハウをオニツカタイガーから学んでいたという出自が関わっていたのですなあ。ナイキのルーツは日本にあるとも言えるような。

 

というあたりは、映画では一切描かれることの無い前史ということになりましょうが、そうした立ち位置に立っていたナイキがバスケットボールシューズを手掛けるようになるも売り上げは伸び悩み…。広告塔となるスター選手との契約ことを喫緊の課題というときに、これからプロ・デビューする新人選手の獲得するための他社との競争が始まるわけです。

 

期待のマイケル・ジョーダンに目を付けたのはナイキばかりではなしくて、あの手この手の勧誘合戦となる中、結果的にはナイキが獲得して、『エア・ジョーダン』という新ブランドが誕生することになるのはネタバレでもなんでもありますまい。

 

ま、「後発メーカーたるナイキはマイケル・ジョーダンをいかにして獲得したのか」という成功物語がこの映画の眼目なのでしょうけれど、スポーツに絡んで大金が動く一面でもありますなあ。なにも、マイケル・ジョーダンだけに、バスケットボールだけにとどまる話ではありませんが。

 

他の人には無い能力、技能を持っている人がいたとして、その人の価値(というのが適当かどうか…)を測る尺度のひとつに金銭の多寡がありましょう。一般企業においてさえ、能力主義の旗の下に業績に左右される賃金形態がとられていたりもするわけで。

 

さりながら、日ごろから「足るを知る」ことを標榜している者(つまりはこぢんまりとまとまってしまっているだけかもですが)にとっては、「なんだかなあ」と思ったり。映画の話として面白くないわけではありませんですが、格差社会の広がりが大いにクローズアップされる米国で、こんな感じの映画が作られてヒットする…と、このことにも些かの「なんだかなあ」感を抱くところなのでありました。