いやはや毎日暑くて、すっかり出不精に。されど、一端出てしまえばどこもかしこもガンガンに冷房を効かせているので、自宅に籠っているよりは快適のような気もしますですねえ。その間、締切の自宅にはどんどん熱が籠っていきますが(笑)。
ということで、コロナの渦中によく聞かされた「不要不急の外出は云々」という文句が毎日の天気予報で告げられる中、取り敢えず自宅から最も近い美術館を覗きに出かけたのでありました(コロナの渦中に云々とすっかり過去形にしてますが、数字の発表のされ方が従来とは異なっていますので、密かに再拡大しているようにも思いますが、それはそれとして)。
出かけたのはJR中央線・国立駅の駅前にあります「たましん歴史・美術館」(くどいですが、立川にある「たましん美術館」とは姉妹館で別もの)でして、「風景のかたち、風景の手ざわり」という展覧会が開催中なのでありましたよ。
要するに風景画ばかりを集めた展覧会ですけれど、「対象が同じでも、表現の違いによって、絵画として現れる風景はさまざまです」とはその通りでありまして、そのあたりこそ美術鑑賞の楽しみのひとつでもあるような。例によって、超有名作家の作品が並ぶものではありませんが、落ち着いた雰囲気の中でかっちりと効かされた冷房とさまざまな風景画を堪能してきたわけでして。
超有名作家の作は無いと申しましたですが、上のフライヤーに作品が配された中村彝はよく知られた方でしょうか。『巌』というタイトルどおりにごつごつとした岩礁を写実的に描いて、(単に個人的印象ながら)クールベの描く海岸風景を思い出したりもしたものです。が、実は個人的にもそとっと惹かれた作品はフライヤーの裏側にある一枚なのでありました。
藤島武二の作品で、タイトルに『屋島より女木島展望』とありますから、四国・高松の沖合、つまりは瀬戸内の海ということになりましょうか。写実を追求した場合の重厚さ(例えば、上の中村作品のような)とは対極にあるほのぼの、のどかな印象は、俳諧で言う「かるみ」てなことにも通じましょうかね。1932年となれば藤島は六十半ばで、まあ、たどり着いた境地かとも。
ちょっと銭湯のペンキ絵を思い出す…といっては藤島先生にお叱りを受けるやもながら、そんな思いが過ったときにふと、「ああ、この絵は涼やかなんだ」と。銭湯に暑苦しい絵が飾られていたならば、風呂につかる側としては少々げんなりするかもしませんが、湯でぬくまりながら涼やかな画を頭上にいただくのは頭寒足熱でもありましょうし(笑)。
いい加減に銭湯絵からは離れなくてはいけませんですが、ともあれこんなふうに視覚頼みであるはずの絵画でもって、「涼やかさ」という肌感覚を感じるというのは、考えてみると不思議ですよねえ。瀬戸内にはよく知られるように「凪」があって、ことさらに暑くなるという実際を鑑みれば、涼やかさとは程遠い気もしないではないわけで、不思議度合は弥増すばかりです。
一方で、倉田三郎が描いた『柳州にて』は中国の山村水田の風景なのですけれど、空気のたっぷりとした湿潤さが伝わってきて、今の季節に(冷房の効いた館内でなくては)とても見てはいられないような気にもなったり。
先にも触れましたように絵画は本来的に視覚に訴えるものであって、手ざわりならぬ肌触りが直接的にあるはずのものではないわけですね。にもかかわらず、ある絵からは涼やかさを、別の絵からはむっと来るような湿度感を感じるとはいったい?と思うところです。が、よく考えてみるまでもなく、芸術というのは一時的な感覚(美術でいえば視覚)のみならず、さまざまな感覚に訴えかけるものなのでありましょう。
翻って音楽であっても聴覚で聴くというばかりでなくして、ひんやりした音楽、暑苦しい音楽というのもあるわけでして、こうしたヒトの感覚に(複合的に)訴えかけるものが芸術であるのかもです。そして、そんな複合的な感覚を体験するのが(おおげさにいえば)芸術鑑賞ということになるのでもありましょうか。
ということで、暑い暑いと自宅に籠っているばかりでは思い巡らすことのないようなことに思い付いたりする。やっぱり、引きこもってばかりいてはいけんですなあ(笑)。