近所のスーパーに買い物に出掛ければ、何もかも値上がりしており…。そんな中できのこ類の並ぶコーナーでは、しめじもエリンギも舞茸もみな99円という値段が付いており、「ああ、きのこを食っていれば生きていけるか…」と。「きのこは偉大であるなあ」とも思ったりするわけですが、「あなたは、きのこの偉大さをまだ知らない」とフライヤーに記されたドキュメンタリー映画を見ることに。題して『素晴らしき、きのこの世界』でありますよ。

 

 

「なるほど…」とか「うむむ…」と思いながら見ておりましたですが、ちと思惑違いであったなと思いましたのは、きのこフォーカスには間違いないのですけれど、在野のきのこ研究家の個人を追ったところもあり、その方が発信する、いわば「きのこ教」のような臭いがいささか漂っていたものですから。

 

このあたりの受け止め方は人それぞれでしょうからさておいて、ここではもっぱらきのこの話を。先のスーパーでのことも正に!ですけれど、普段「きのこ」として認識しているもの(即ちスーパーでパックに入って売られているもの)は、きのこのほんの、ほんの一部分でしかなかったわけで。きのこが繁殖するために胞子を振りまくための器官が地上に顔を出しているだけで、本体は地中にありというわけです。

 

一般にきのこと認識する繁殖器官が顔を出しているところのみならず、地中には網の目のように菌糸状の本体の広がりがあって、それは他の植物、森の木々の根とも絡み合い、さまざまな物質伝達があって、いわば共存共栄のような世界を作り上げている。森の木々をネットワーク化して全体像を全体像たらしめる役割を担ってもいるのですなあ。

 

こうしたネットワークを想像しますと、インターネットであるとか、そういう(見えないけれど、確実に存在する)ものを思い浮かべたりもしますが、一方で人体に置き換えれば、体中に延び繋がる神経系のようにも思えますし、さらには脳の中に張り巡らされた情報伝達回路のようにもまた。

 

生物としてきのこが類する菌類は非常に古くから存在するのであって、生命誌の上では遥か遠い昔にヒトなどへと向かう経路と枝分かれしているものと思いますけれど、ネットワークを形成して生き延びていくというそのありようには、利ありというべきところがあったのか、形態として(機能はともかく)動物の神経系統や情報伝達器官に類似の形状が見られるのは、必要最低限の姿を温存しているのであるか…てなふうに思ったり。

 

いつしかあるかもしれない人類滅亡の後に生き残るのは、気味悪いほどに黒くて動きがすばやい虫であるてなことをかつて聞いたことがあるものの、その実、生き残れるとすれば、それはきのこなんではなかろうかと思えてきたりもするのでありますよ。

 

ところで全く違う思い巡らしにはなりますけれど、きのこは生き残る術として、例えば胞子の飛ばし方ひとつとっても、さまざまな方法を身に付けてきておりますね。映画の中でも紹介されておりまして、実に多種多様。その多様さの分だけ、きのこの種類がたくさんあるということになりましょうけれど、そんなときにふと気づくのは、「ヒト」というのはなんともバリエーションに乏しい種であるなあと。

 

動物に限らず生物は、それが存在する気候風土などに適合すべく変化を繰り返した結果、種のバリエーションが豊富になってきておりますね。固有種などと言われる種類がたくさんあるわけで。翻って「ヒト」は?と考えてみますと、暑い所、寒い所、そうでもない所で肌の色合いが異なるといったところまでの分化はしたのかもしれませんですが、その分化も相互乗り入れ可能な状態のところで止まったままといいましょうか。おそらくはその後、他の種であればより細密な適合のための分化が繰り返されたのでしょうけれど、「ヒト」は人体の変化とは違う形でさまざまな条件への適合(克服)を行ってきたのかもしれません。

 

違う形というのは、他の種には無い、衣服をまとうといった行為などにも表れていると思いますが、その本来的ではない「もの」頼みの適合のありようは、いざ「もの」が無いという状況が生じますと、とても脆い存在と化してしまうかもしれませんですね。そんなとき、シンプルだけれども必要最小限に不可欠なものを保持し続けてきたきのこ、菌類は強さを発揮しそうな気がするのでありますよ。まあ、想像ですけれど、きのこのドキュメンタリー映画でずいぶんと大げさな話になってしまいました(笑)。