池袋の東京芸術劇場で読響の演奏会を。毎度のごとく席で待合せた友人と開演前に、言わずもがなの「暑いねえ」と時候の挨拶を交わしたわけですが、昔の職場(友人は転職前の同僚だもので)では冷房の温度設定を巡って、主に女性VS.男性の熾烈な?戦いが展開していたっけねえ…てなことも。まあ、今にも続く永遠の課題なのかもしれませんですが、昔は「クールビズ」などいう運動もありませんでしたから、夏場といえどもネクタイをし、ジャケットを羽織った男性陣に対して、女性陣の服装のなんと軽やかなことであったか。そりゃあ、冷房に託す望みのほどには今以上に違いが大きかったとはいえましょうかね。

 

と、そんな思い出話も束の間、ホールの座席に落ち着いてだんだんと汗も引っ込んできますと、「なんだか寒いな…」と。外気温に比して適切なる冷房がホール全体を包んでいたのかもですが、このところ家にいていくらかでも暑くないような恰好をして過ごしている、その姿のままに池袋に出かけたものですから、適切なる冷房をむしろ寒く感じてしまったようなのですなあ。お隣の友人は、と見ればしっかり長袖の開襟シャツを着ておる。このあたり、今も平日には通勤している現役サラリーマンは、各所での冷房事情に通じていると言いましょうか。

 

ともあれ、個人的にはすっかり冷え切った状態で演奏会の終了を迎え、さて居酒屋に席を移してひとしきりよしなしごとを語らって…と思えば、入った居酒屋がまた親切にも冷房をたっぷり効かせており、その上、勢いでお決まりの生ビールなどを頼んでしまった日には、体の中まで震え上がることに。即座に熱燗を求めてしまった次第でありますよ(笑)。TPOとまで言っては大げさですが、およそこの時期、適切なる?冷房がきちんと入っている場所に出かけるときにはそれなりの服装が必要であったなと、今さらながらに思ったところなのでありました。

 

とまあ、全くの余談が長引きましたけれど、今回はなかなかに珍しい?演奏会であったなとも。古楽畑にルーツがある鈴木優人が指揮する曲目はバロック作品と近代作品を並べたものであり、かつバロックと近代の作品の間にはつながりがあると思い返させるプログラムであったわけでして。

 

 

オーケストラの演奏会となれば、その多彩な楽器の個性の発揮と、それぞれが微妙に重なって醸す色彩感、さらには大人数ならでは大きな音圧などなどを楽しむところでして、むしろ少人数で演奏されるバロック期の音楽は、バッハ、ヘンデルあたりは別として余り取り上げられることがないような。さりながら、それこそバロック期を彷彿させるリコーダーとオルガンによる即興演奏を前座として、まず最初にフランソワ・クープランの組曲『諸国の人々』から「ピエモンテの人々」が演奏されたものでして。で、これは休憩を挟んだ後半一曲目のラヴェル『クープランの墓』と呼応し合う関係にあるわけですな。

 

ちょうど200年ほどの時を隔てて、ラヴェルがクープランに寄せたオマージュということになりましょうけれど、通底するのは舞曲(19世紀にはすでに古臭いものとなっていたものもありましょうが)の底力でしょうか。いろいろと種類のある踊りにはそれぞれに特有のリズムがあり、それに付ける舞曲もまた個性の違いを反映させることができる。そんなバリエーションの妙を舞曲集は出すことができるわけで、クープランへのオマージュという以上に古い舞曲形式へのオマージュであるのかなと思ったり。ともすると古臭いと斬って捨てられるだけの舞曲の形式はラヴェルのように現代化した扱いも可能というわけで。

 

一方、後半2曲目に演奏されたプロコフィエフの『古典交響曲』は、これはこれで交響曲を量産したウィーン古典派のハイドンへのオマージュということですな。ということからすれば、前半2曲目はバッハのブランデンブルク協奏曲第2番でなくして、ハイドンのシンフォニーか、協奏的作品であればトランペット協奏曲でももってきていれば、なおのこと座りのいいプログラムとなったのかもしれませんですね。

 

ただ、ここでハイドンのトランペット協奏曲を思い出させたのは、ご存知のようにブランデンブルク協奏曲第2番は独奏トランペットが相当に目立つ曲であるからでして。プログラムの趣旨からするとどうなのかはともかく個人的には、このブランデンブルク協奏曲第2番がいちばん楽しめた作品だったのでもありましたなあ。

 

とまあ、大きなオーケストラの演奏家でクープランやバッハのブランデンブルク協奏曲が取り上げられるといった、プログラムの珍しさがあったわけですけれど、もひとつ珍しいのは指揮者・鈴木優人によるアフタートークが行われたことでしょうか。演劇公演などでは舞台がはねた後に役者や演出家によるアフタートークがあるというケースはまま見られるところながら、オケの演奏会の場合には公演前のプレトークがもっぱらなのではなかろうかと。

 

クラシック音楽の演奏会は、ともすると宗教的儀式でもあるかのように神妙に拝聴して、余韻に浸りつつ帰途につく…といった印象もあるわけで、ことほどかほどに余韻に重きを置けばこそ、アフタートークはそれをぶっ飛ばしてしまう虞、無きにしも非ずということなのでしょうかね。実際、「アフタートークあります」というアナウンスが流れても、そそくさと席を後にする人たちは結構いたですが、それでも残った人たちの方が格段に多かったでしょうか。それなりの期待というのか、需要というのか、そういうものはあったやに思うところです。

 

これがもしもブルックナーの交響曲第8番のような大きくたっぷりとして深遠なる音楽世界に浸った後ならば、余韻の方が大事となるかもですが、プログラム次第ではこういう企画がもそっとあってもいいのかなと。クラシック音楽離れ、演奏会離れが懸念されるご時勢にあっては、プログラムの内容によってプレトークやらアフタートークやらを使い分けつつ織り込んでみるというもありでしょうなあ。ただ、来場者から質問を受け付けるといった形は、もそっとさらにライトな演奏会、例えば夏休みこども企画とかいう類いでやるにしても、普段は無しでいいように思いますですね(個人的には)。