JR川崎駅の西口は現在、こんなふうになっておりますな。駅直結の大型商業施設「ラゾーナ川崎」に続いて東芝のビルがどぉんと。まあ、こうした再開発が進められる以前は、駅の西側一帯が電気メーカー・東芝の工場だったわけですが、当然といえば当然かと。
てな経緯で川崎と大いに所縁のある東芝のビル内にある企業ミュージアム「東芝未来科学館」を訪ねてみたのでありますよ。前から気にはなっていたですが、川崎に出向くついでと開館日の折り合いがこれまでつかず、ようやっとです。
ワンフロアに展開される展示の数々は、ヒストリーゾーン、サイエンスゾーン、フューチャーゾーンという3つのゾーンから構成されておりまして、そのうちでも後二者がメインと思しきものであるのは、電気に関わる科学技術に携わる企業ならではでしょうなあ。施設の名称も未来科学館ですのでねえ。
とまあ、そんな未来予測を伴う展示がありながら、個人的な興味から目を向けたのはヒストリーゾーンなのですなあ。未来を謳った施設で過去を振り返るというのもなんですが(笑)。でも、順路的には番号1が付けれられてもおりますし。
東芝という会社はかつては東京芝浦電気、略して東芝でありましたなあ。ただ、略称を正式名称にしたのは1984年だそうですから、すで40年近く経ってすっかり定着しており、まあ、東レのことを東洋レーヨンともはや呼ばないが如しでありましょうかね。
ともあれ、東京電気と芝浦製作所が1939年に合併して東京芝浦電気となったわけですが、その淵源をたどればそれぞれの企業の創業者二人にたどりつくという。ひとりは後に芝浦製作所となる工場を興した田中久重、そしてもうひとりはやはり後に東京電気となる白熱舎を創業した藤岡市助でして、より古い田中の工場立ち上げをもって、1875年(明治8年)を東芝発祥の年としているようですな。
しかしまあ、江戸時代、平賀源内のえれきてるはともかくも、電気利用というのも明治近代化の産物であろうと思うところながら、明治8年段階で電気関係(当初は電信機の製作とか)の工場を立ち上げるというのは進取の気性の賜物でしょうかね。田中の生涯を見ていきますと、幕末から明治へ加速度的に進んだ工学技術といったあったりに思いを馳せたりすることに。なにせ、田中のものづくりの始まりは「からくり人形」にあったとか。自らの人形を使った興行も開く「「からくり儀右衛門」として夙に知られた人物であったそうな。
ガラスケースの右下に展示されている「茶運び人形」も、その上に段々が見えてますが、その段々を人形が見事なバック転をしながら下りてくる「段返り人形」もその動きはよく知られたところかと。これらはいずれも田中の作(展示は複製)で、江戸末期頃のハイテクの粋を駆使して作られたそうでありますよ。その後さらに機械工作の技に磨きをかけて時計作りにも傾倒し、作り上げた最高傑作とされるのがこちらです。
「万年時計(万年自鳴鐘)」と呼ばれて、展示は複製ですけれどオリジナルの方は「和時計で唯一、国の重要文化財に指定されている」と。六角柱状の外観でして「和時計文字盤や、洋時計、月齢表示など6面の表示板」を持っている上に、天辺部分には「天球儀」までを備え、「江戸時代の時の概念を全て表してい」るのであるそうな。いやはや、凝りも凝ったりではありませんか。
と、ここまでのところでは細かな細工に秀でたようすが窺えるわけですが、その後の活躍は幕末動乱にも関わってくるような。展示解説にはこんなふうに紹介されておりましたよ。
ペリーが浦賀に来航した嘉永6年(1853年)、京都でともに蘭学を学んだ佐野常民の誘いに応じて佐賀藩の精煉方に赴きました。佐賀でも田中久重は豊富な経験と技能を発揮し、動力蒸気機関、電信など幅広い分野の技術開発に成果を上げました。さらに元治元年(1864年)には技術顧問として久留米藩に招かれ、蒸気船の購入、アームストロング砲の製造などに貢献し、ほかにも地場産業のために多彩な発明品を送り出しました。
このあたりのことがあって、明治初年に電信機製造の工場を立ち上げることになっていくのですなあ。なるほどです。ただ、作るのは電信機ばかりではなくして、工場の入り口には「萬般の機械考案の依頼に應ず」と看板を掲げたとは、あらゆるモノ作りはお任せをという田中の自負が現れているようでありますね。
とまあ、こんなふうにからくり人形師・田中久重は興した田中製造所は発電機なども手掛けるようになり、1904年に芝浦製作所となって後の東芝の重電部門の礎を築いていくわけですが、はてもうひとりの創業者・藤岡市助の白熱舎の方は…。次には、藤岡に始まる家電製品作りの道をたどってみるといたしましょう。