近所の図書館の新着図書コーナーで見かけて、つい手を伸ばしてしまった一冊。『〇〇の世界史』とは、岩波ジュニア新書あたりによく見かけるタイトルで、それぞれに結構な興味深さのあったところでして、『旅行の世界史』もまたその仲間であるかと思ったものの、体裁は岩波ジュニア新書というよりも講談社現代新書に近いイメージで。それもそのはず(?)発行元の星海社とは講談社の関係会社であるようで、発売元は講談社になってますしね。
で、ジュニア向けとまではいわずとも「次世代を担う若い世代が、自らの力で未来を切り開いていくための「武器」としても使える知のかたち」を本にしていくというのが星海社新書のコンセプトであるらしく、本離れ云々と言われる中、若い世代向けであるが故の読みやすさでしょうか、そんな印象が本書にはありましたですよ。その「読みやすさ」と必ずしも関わるところではないかもながら、どうも話向きに深みが足りないように思ったのは、ちと偉そうな感想かもですが。
まずもって、とは大げさですが、(極めて個人的な思いの反映かもながら)そも「旅」という言葉と「旅行」という言葉に受ける印象、感覚の違いは余り一般的なものではないのであるかなあと。大きな「旅」という括りの中の部分に「旅行」を位置づける整理もあろうかと思いますけれど、イメージとして「旅行」には物見遊山的なところがあるように思えるのですよね。もちろん、ビジネス旅行といった言い方もありましょうが、これには商用とか出張とかいう言葉もあるわけで、こと「旅行」といったときには遊び心が垣間見える気がするもので(繰り返しになりますが、個人の意見です)。
そんなところで本書では最初に、アフリカに誕生した現在につながる「ヒト」が全世界に広まったように「人類はつねに移動をくりかえしてきたのだ」というところから始まるのですな。そして、古代では(『ギルガメシュ叙事詩』や『オデュッセイア』という書物に描かれた旅はともあれ)アレクサンドロスの東征、三蔵玄奘の仏典を求める旅などが取り上げられていきますが、「旅行」の世界史を起源としてこれらが出てくることにどうしても得心がいきにくいといいますか。
現生人類を「ホモ・サピエンス」(賢い人)といいますけれど、その誕生の直後から世界に散らばるという移動は確かにありましたですね。ですが、(ホイジンガが使ったそもそもの意味合いとは異なるところながら)「ホモ・ルーデンス」を文字通りい「遊ぶ人」と見るならば、中世以降になって日々の糧を得るために移動するといったことでない移動、何か別の目的に根差した移動(その全てを「遊び」に由来するとしては雑駁に過ぎますが)が出てくるところが「旅行」の生じた分岐点なのかもしれないと思ったりするところです。
中世以降でも、吟遊詩人とか遍歴学生、遍歴職人などは(「旅」のイメージがあるとしても)まだまだ「旅行」のイメージにまでは到達していないかもですが、これがひところヨーロッパ王侯貴族の子弟にあった「グランドツアー」のようなものになりますと、「旅行」感が弥増すところでもあろうかと。そして、(狭義で捉えた)「旅行」然としたものの誕生は近代イギリスのトーマス・クックによるところ大であるような気がするわけです。
トーマス・クックをして「近代ツーリズムの祖として知られる」とはWikipediaにある紹介ですけれど、考えてみればこの「ツーリズム」と言われるような移動のありようが、いわゆる「旅行」に馴染むものであろうかと思ったり。クックは団体旅行、パッケージ旅行を編み出して、旅行を大衆のものとしましたですが、ここに至って物見遊山そのものが目的になってくるわけですし。まあ、それ以前の「グランドツアー」も物見遊山的ではあるも、本来的にはフランス、イタリアなどの文化先進地に赴いて人格陶冶こそが目的でしたし、また全く大衆的なものでもなかったですしね。
話はその後、交通機関の発達に伴って「旅」に伴う移動プロセスに焦点が当たるよりも、行った先で何を見、何をするか(つまりは物見遊山ですが)が一層肝心な点になって、「旅行」らしさを決定づけていくことに触れられています。そして、最終的には宇宙旅行への言及まで。
ということで時代を追って話は進むわけでして、それぞれの時代に事例として挙げられた「旅行」というか、「旅」というか、「移動」というかは、いずれも興味深い話ではあるものの、紹介としてはやはり食い足らず(どの事例もそれだけで一冊の書物として面白く読めるものですしね)、それを「旅行」という言葉で一気通貫することに感じる違和感がどうしても拭いきれず…というのが、個人的に正直な感想なのでありました。まあ、当該新書の目指すところである、若い世代が考えていく一つの動機付けという点では、所期の目的に達しているかもしれませんですが…。