まあ、鉄分濃度の違いによって楽しみ方はさまざまと思われる「碓氷峠鉄道文化むら」にあって、個人的にいちばんの見どころかと思えるのが鉄道資料館でありまして。「全国の皆様に惜しまれながら廃線となった、信越本線“横川~軽井沢”の歴史資料を結集。後世へ引き継ぐ目的で設立された、碓氷峠鉄道史、唯一無二の資料館です」(文化むらHP)と紹介されているものですから。

 

 

 

1階奥では碓氷峠の再現を含む大きなジオラマを鉄道模型が走るという展示がありまして、次々に形の異なる列車が走り回るのを見るのも、これはこれでお楽しみではありますね。

 

 

 

そうではあっても、やはり2階の資料展示コーナーこそは見落とせないですよねえ。自らアプト式の機関車になったつもりで、2階への階段をえっちらおっちら上がっていきます。ちなみに碓氷峠を抜ける線路の勾配は最大個所で68‰(1000m進むのに68m登る)で、この路線の廃止後にJRで最も急勾配なのは奥羽本線の板谷峠(38‰)だそうですので、やっぱり相当きつい坂だったわけで(私鉄にはもそっと急勾配もあり)。

 

 

 

維新を迎えて鉄道が走り出してから明治8年(1875年)、「東京と京都・大阪を結ぶ幹線鉄道は、中山道に沿ったルート」で構想され、測量が開始されたそうな。さりながら、数多の山越えなどがあるルートは「難工事の連続で、完成しても運転時間がかかりすぎることがわかり、東海道線を先に建設」することになったのだとか。では、中山道ルートはお蔵入りかといえばそうではなくして、東西幹線というところから本州縦断へと位置づけを代えて、上野から日本海側の直江津を結ぶ路線となっていったようです。

 

上野と直江津、両方から続く線路が相互に建設されていく中、やがて両者の工事は碓氷峠を挟んで停滞することに。峠をいかに越えるか、「ループ線やスイッチバック線、ケーブルカー方式などいろいろな方法やルートが検討され」ということですが、結果として採用されたのが「アプト式」であったと。

 

 

そして迎えた明治26年(1893年)、碓氷峠を越える鉄路が完成します。「工事期間はわずか1年10カ月」ながら「26のトンネルと18の橋梁があり、500人余りの犠牲者が出ました」とは難工事のほどが偲ばれようかと。

 

 

この開通によって「太平洋側と日本海側がつながり、人の行き来や物資の輸送がたいへん便利にな」ったわけですが、惜しむらくはその輸送量とスピードでしょうか。何しろ碓氷峠越えは時間が掛かるうえに、押し上げられる車両数も少ないのですから。

 

 

そこで早速に検討されたのが電化工事であったと。「横川ー軽井沢間は、日本で最初に電化された幹線鉄道」なのだそうでありますよ。火力発電所や変電所の建設とともに架線が敷かれ、明治45年(1912年)には電気機関車(当初は蒸気機関車との重連であったらしい)が走り始めたのであると。これによって、所要時間の短縮とともに輸送量の増大が図られたということです。

 

まあ、電化されたとはいえ、急勾配克服にアプト式ラックレールは活躍し続けて、アプト式が完全に廃止されたのは昭和38年(1963年)であったそうな。ラックレールを利用した鉄道路線は世界のあちこち、もちろん日本でも現役のところはありますけれど、観光的な要素はともかく、基本的に大動脈として輸送を担う路線としては、克服されざるを得ないものでもあったのでしょうねえ。

 

 

勾配の緩和できる新ルートへの付け替えや電気機関車の改良が行われてアプト式は廃止、やがて「峠のシェルパ」と称されるEF63形電気機関車が大活躍する時代が訪れたことは、先に鉄道展示館で実物車両を見たときに触れたとおりですな。

 

ですが、その花形機関車の活躍も終焉を迎えることに。1997年、北陸新幹線の部分開業として長野まで新幹線が走るとなった際、信越本線の線路は分断されることになったのですな。第3セクターの鉄道として再生した部分もありますが、横川~軽井沢間は完全廃止となってしまいまして。

 

 

何かにつけ「一時代の終焉」てなことを言われることがありますけれど、この信越本線の分断は正にその言葉が当てはまることのような気がします。もっともこれも昭和の感覚なのではありましょうなあ…。