さてと群馬県高崎市のかみつけの里にあって、ようやく古墳そのものを見に行くことに。といっても、かつみけの里博物館からは目と鼻の先ですので、博物館から一歩外へ出れば、すでにこんなふうに見えてはいるわけですが。

 

 

保渡田古墳群のひとつ、八幡塚古墳。古墳の名称としてはどこにもありそうなものだけに、他と区別するには保渡田八幡塚古墳とも。そして、他と異なるこの古墳の特徴は「発掘調査の成果をもとに、つくられた当時の姿に復元されてい」ることでありましょうねえ。高崎市HPの「保渡田古墳群」紹介ページには、このようにありますですよ。

八幡塚古墳は、平成8年度から平成11年度までの4ヶ年をかけて保存復元整備されました。墳丘部や内堀のなかにある中島の法面には葺石を施し、後円部内には石棺展示施設も整備されています。また、内堤上には54体の人物・動物埴輪等が配置された「形象埴輪配列区」があり、墳頂部や中島等に円筒埴輪が巡らされています。

 

墳丘を覆い尽くす葺石が再現された古墳という点では、もそっと規模が小さいながら上円下方墳という独特の形状をもった武蔵府中熊野神社古墳(東京都府中市)で「おお!」と思ったものですけれど、やはり規模が大きくなるとなおさら強い印象を残しますなあ。古墳を目の当たりにする以前、かつみけの里博物館で埴輪をたくさん見て、いわゆる武人埴輪といったものの見て来ただけに、古墳そのものが小札を連ねた甲冑を見にまとっているようにも思えてきたものです。

 

 

ところで、博物館展示室の壁面にも、また実際に古墳の背景にも見えている榛名山。古墳の復元にしても「形象埴輪配列区」の再現にしても、後ろに控える榛名山がかつて大爆発したことで、すっぽりと火山灰に覆われてしまったからこそ、復元・再現が可能な状況で保存されることになったのですなあ。で、内堤に設けられていたという「形象埴輪配列区」、博物館では「埴輪劇場」と言っているようですが、このような配置には7つのストーリーが読み取れるということなのですなあ。

 

 

その中でも、もっとも王の威厳を示すシーンが「儀式を行う場面」でしょうか。実際に内堤上にはこのように再現されておりますな。

 

 

中央には色模様の付いた王冠(?)を被った王が、向き合う巫女に対してなにやら指図をしておるような。近くを王族が取り巻き、琴の奏者も並んで儀式性を高めているのでしょうか。確か、静岡の登呂遺跡博物館でも古代の琴(再現)が展示されていて、祭祀に使われていたとありましたが、琴が祭祀・儀式に使われるのは弥生以来のことなのですなあ。というところで、墳丘には当然に登ってみることに。そうしますと、保渡田古墳群のもうひとつの特徴がよく分かるのでありますよ。

 

 

前方後円墳は言うまでもなく円形と方形とが結びついた形をしておりますが、そのつなぎ部分に「造り出し」なる部分が設けられているのを、よく目にしますですね。さりながら、ここの八幡塚古墳(そして二子山古墳も)には造り出しが無いのでして、その代わり(というべきかどうか)内堀の中、後円部を取り囲むように4つの「中島」が設けられているのでして。

 

 

解説に曰く、この中島の「回りには円筒埴輪が巡らされ、埦などの土器が多量に出土した」のだとか。ただ、「古墳における祭祀の場」であったとか、「近親者や従者の埋葬施設(陪塚)」であったとか、造られた意図は現在のところ定かではないようです。

 

 

ともあれ墳丘頂に到達してみますと、たまたまであるのか、やおら強風が吹き荒れるようになりまして、こんなところからも「かかあ天下とからっ風」が上州名物であったと思い出したりも。ちなみに「かかあ天下」は、保渡田古墳群からもほど近くに「日本絹の里」なる展示施設がありますように、養蚕で知られた群馬にあって、養蚕という稼ぎのいい仕事のの担い手が女性であったことから女房に頭があがらない…という構図が生まれたようで。また、「かかあ天下」、「からっ風」に「雷」を加えて、「群馬の3K」と呼ばれたりするのであるとか。余談ですが。

 

 

ひと際高く盛られた後円部の上には竪穴式の埋葬施設があったわけですが、ここでも石室のようすが再現されているということで、この階段を下りて地下へと向かうことになります。

 

 

と、ここまで来てなんですが、再現石室のようすは石棺の話ともども、お隣にある薬師塚古墳とも絡めて、次に持ち越しということで(笑)。それはそれとして、この保渡田八幡塚古墳、わざわざ(公共交通機関利用では)不便なところをわざわざ訪ねる甲斐のあるところであったような気がしたものなのでありました。