しばらく前の新聞・書評欄に

「最近、一部で増殖中の『古墳女子』の皆さん…」てな記載を見かけたですが、
なるほど書店を覗いてみれば、硬軟取り混ぜた中には相当に柔らかい「古墳ガイド本」が

いくつか平積みされているのですね。


大人の探検 古墳


その相当に柔らかい類いは、

ぱらぱらと眺めてみるにいささか臆するような作りでもありましたけれど、
先の書評で「ユニークな古墳解説書」とされていた一冊の方は、

考古学の研究者と編集者が各地の古墳を訪ね歩きつつ、
弥次喜多道中を繰り広げる(とは言い過ぎか…)会話で構成されている点で、
実にとっつきやすいものになっておりましたですよ。


大人の探検シリーズと銘打った中の一冊「古墳」。
これまでわざわざ古墳を目指して旅したことは一度もないわけでして、
だいたいどこそこかへ行ったついでに寄ってみたくらないなところ。



比較的最近では、伊豆でふいに出くわした井田松江古墳 を見たり、

静岡市でも賤機山古墳 を訪ねたりしてみても、なにしろ「ついで」ですから、
見たところで「ふ~ん」てな感じであったのですね。



ですが、さすがに考古学の研究者ともなると、古墳には多大なるロマンを感じておられるようで、
またお供の編集者の方も「にわか古墳ファン」との位置付けからして、

興味津々で古墳に臨んでいる。


確かに古墳そのものの設えやら副葬品として発掘されたものから想像を広げれば、
遥か中国大陸との文化的交流といいますか、そうしたあたりのことを思い巡らすことになり、
なるほどロマンでもあろうか…と思ったり。


となれば、本の思惑どおりに「古墳をこそ目当てに出掛けてみようか」となるわけですが、
畿内にでも住まっていれば、それこそ有名な古墳がわんさかあろうかというものながら、
思い付きでそうそう遠出も叶わず、紹介されていた古墳の中で、
唯一自宅から自転車圏内にあるところへ出掛けてみたのでありますよ。


その名を「武蔵府中熊野神社古墳」と言いますけれど、たまたま近くにあるわりには
全国的にも珍しい(Wikipediaによれば全国に6例しかない)という、上円下方墳であるとのこと。
俄かに期待が高まるではありませんか。


ということで、東京都府中市の熊野神社を目指したところ、
目の前の甲州街道ではばんばんと運転の荒い車が行き交う落ち着きのない場所に
果たして熊野神社はありました。


熊野神社@東京都府中市


今でこそこんなかまびすしい場所に何故古墳が…と思ってしまうところながら、
ここの古墳が築かれたのは7世紀中ごろ、墓所に相応しい静かな場所であったのでしょう。


神社の裏に古墳が!


参道を進んで神社の裏手が望めるようになりますと、いよいよ古墳が姿を現すわけですが、
これは造られた当時をすっかり再現しているとのこと。


どうしても古墳というと、草木に覆われた小山のようなものと想像してしまうものの、

これは全体が石葺きになっているという。
一見したところでは
ヘルシンキのテンペリアウキオ教会を思い出してしまいます。


全面石葺きの熊野神社古墳


というところで、神社の鳥居近くにある「古墳展示館」を覗くわけですけれど、
従来であればこれをさらりと見て回って「見学終了!」としていたものを、
今回は「古墳」の本でいささかの影響を受けておるものですから、じっくりと。


そうすると、この古墳を造ったのは今から1300年ほども前の人たちながら、
「すげえなぁ」と思うことにもなるという。


上円下方墳


これが上円下方墳であるとは先にも言いましたけれど、
いちばん上の円形部分の直径が約16m、その下の正方形部分の底面一辺が約23m、
そしてその土台となる整地部分(これも周囲に縁石を連ねた正方形をしている)の一辺が約32mで、
これらを比率で表せば、1:√2:2という関係になるというのですね。


現代人(の自分)よりずっと数学的な知識があったというべきでありましょうし、
また石室入り口はほぼ真南を向いているとなれば、天文学の知識も同時に持っていたと。


修復された本物の古墳には近づくことはできませんが、
展示館脇に別途「石室復元展示室」があって入ってみられるとのことですので、早速。


武蔵府中熊野神社古墳「石室復元展示室」


入口は狭く、中は真っ暗に近いとあって、
展示館の受付に申し出るとヘルメットと懐中電灯が貸してもらえます。


「石室復元展示室」入室用グッズ


というより、ヘルメット着用は義務付けられておりまして、
貸し出すおじさんが頻りに「気を付けて」というもので、
入るにはOKでしたが、出る時には思い切り「ずごん!」と。
似たようなことをしてしまう人が多いのでしょう(笑)。


石室入口から中を覗く 玄室から外を振り返る


上の写真は石室入り口から中を覗いたところと玄室(石室最奥部)から振り返ったところ。

こうしたところに葬る形というのは、やはり胎内回帰のような発想なのかなぁとも思ったですよ。


玄室内で壁面にライトを当てると、予めおじさんの解説にあった石組み(再現ですが)は
なるほどこういうものであったかと。崩れないような工夫なんですなぁ。


玄室内の石組み(再現)


ちなみに石室全体の形は展示館前にブロックで原寸大の表示がありますけれど、
結構奥深い感じで、奥へ行くほど天井が高くなっておりましたですね。


石室の形状を模した展示館前のブロック


なんでも復元にあたって発掘されたときには、
すっかりごっそり盗掘されていたそうですが、盗掘されたこともいつのことやら。


と言いますのも、今でこそ国史跡となり、完全復元されていますけれど、
これは平成になってからの出来事で、何でも熊野神社が新しい神輿倉を建てるのに

裏山(どうも富士塚と思われていたらしい)を削って…と作業を始めたところ、

石葺きの遺構が出てきて、さあ大変!状態になったようす。


もっとも、そのおかげで神輿の倉庫が別のところになったにはもとより、
神社の本殿そのものを曳き屋しなくてはならかったそうでありますよ。
上の方の写真で、本殿と裏側の石室入り口の近さを見ても想像できるところかと。


ところで、石室は盗掘されてとは言いましたが、盗人がこぼして行ったか、
辛うじて発見された「鞘尻金具」が展示館のマークのように表示されておりました。


盗掘を免れた鞘尻金具の形状


中央部に見える七つの小さな丸の模様を「七曜文」というそうですが、
こうした装飾のある大刀(刀自体は持ち去られたのでしょう)が副葬されていたことやら、
そも上円下方墳であり、石葺きであり…などなどの特徴は

当時としては先進的な文化と関わるようで、これを合わせ考えると、

葬られたのは武蔵国でも相当な有力者であったろうとなるようで。


東国は単なる田舎であったわけでもなさそうな様子が浮かびあがってくるとなると、
なるほど「古墳にロマンあり」てな気がしてきましたですよ。


つい先日、りんごさん が関東では有数の「さきたま古墳」を訪ねておられましたが、
ここはスウェーデンでバイキングの王墓のあるガムラ・ウプサラを見てきて以来、
何となく気に掛けていた場所でもありますので、
やはり近々訪ねてみんことにはと思いを新たにするのでありました。